2018年10月01日

人口減少の亡霊が招くデフレマインド

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シビルNPO連携フォーラム 理事
NPO全国街道交流会議 代表理事
(パシフィックコンサルタンツ株式会社 特別顧問) 藤本 貴也


少子高齢化に伴う人口とりわけ生産年齢人口の減少は、その水準の高さと進展の速さがゆえに、我が国の現在および将来の様々な分野に大きな問題を投げかけている。先日日刊建設工業新聞90周年記念シンポジウム「国のかたちをかんがえる」が開催され、その基調講演においても中長期的な人口減少を根拠に日本のGDPは今後とも減少傾向をたどらざるを得ないということを前提に様々な議論が展開されていた。国立社会保障・人口問題研究所の中位推計によると平成27(2015)年12,709万人の「人口」が50年後の平成77(2065)年には8,808万人まで減少する(30.7%減少)。「生産年齢人口」にいたっては7,728万人から4,529万人へ41.4%減少するとの数字を見れば、中長期的な経済の成長に対しては悲観的な気持ちになることも理解できる。
しかし、この人口減少率を1年あたりでみると「1%前後」であり、厳しいハンディキャップではあるものの、以下に述べるように、克服できないほどのレベルではないということがわかる。経済の潜在成長率は、「労働力」、「資本(生産設備)」、「生産性」の伸び率で決まることはよく知られている。このうち、「労働力」の中心となる「生産年齢人口、即ち15歳以上65歳未満人口」は確かに年間1%前後減少するが、高齢者や女性の社会進出によりその減少を緩和することが出来る。また「生産性」については、技術革新やインフラの改善により効率化が可能である。昭和40年代我が国は年間10%程度の高度経済成長を達成した。この時期は確かに人口が伸びて経済を押し上げたことは事実であるがそれは高々年間1%程度であり、残る約9%分は「資本」、「生産性」の伸びによるものであった。
あるマスコミ人から、「将来の経済見通しについては悲観論を展開するほうが知的に見え、また予想を上回って経済が成長しても非難の声は小さい。一方楽観論を述べる人は軽薄に見え、予想を下回って経済が伸び悩むと非難され易い。したがって識者は悲観論を述べがちだ」と言われたことがある。
小泉政権以来、財政当局主導で緊縮財政即ちデフレ政策が採られてきた。この結果最近の約20年間、世界中の先進国が2〜3%着実に経済が成長してきた中で、唯一日本だけがゼロまたはマイナス成長で今日を迎えている。平成24(2012)年第2次安倍内閣が発足、「3本の矢」でデフレ脱却をはかろうとしてそれなりの効果はみられたが、残念ながら安定成長軌道に乗るには至っていない。その大きな原因の一つが、「失われた20年」の後遺症も影響して、多くの有識者やマスコミが将来の経済見通しについて悲観論を語る結果、民間企業経営者や国民にもデフレマインドが浸透し前向きな設備投資や技術開発或いは消費の拡大に対して消極的にならざるを得ないことが大きな原因の一つではないかと思う。
多くの先進諸国はこの20年間着実に成長し、その果実により大規模なインフラ整備に取り組み、生産性の向上を図っている。我が国においても人口減少の亡霊に惑わされることなく、官民ともに前向きな投資に取り組めるよう、あえて楽観論を唱える識者が増えることを期待したい。
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第6回 浅草寺の時の鐘に「土木」

江戸後期の図録『集古十種(松平定信編)』に、鎌倉幕府を開いた源頼朝ゆかりの、当時は神仏習合の神宮寺であった鶴岡八幡宮と箱根権現(現箱根神社)の鐘の銘に「土木之殊功(永仁四年、1296年作)」「土木之勤(正和五年、1316年作)」が見える。ただし、明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈によって、前者は明治3年、後者は明治元年に打ち壊されて現存しない。
江戸後期の地誌『江戸名所圖會(齋藤月岑)』に、江戸初期に江戸城北東の鬼門に造営された東叡山寛永寺の鐘楼があり、林羅山による鐘の銘に「成土木之功(寛永八年、1631年作)」とある。ただし、この鐘も明治元年の上野戦争によって寛永寺の多くの伽藍とともに灰燼に帰して現存しない。
『江戸名所圖會』に「鯨鐘同所にあり二六時是を撞けり」とある浅草寺弁天山「時の鐘」は、将軍綱吉が命じて元禄五年(1692年)に改鋳されたもので銘に「起土木之功」がある。東京大空襲で鐘楼を焼失して表面に火の跡が残るものの再建された鐘楼(本年10月末までは解体修理中)で見ることができる。
銘は「今大樹幕下、承先公之事、起土木之功、命山城守戸田忠昌、使十郎左衛門尉建部昌孝、五郎左衛門尉三浦義成、八郎右衛門尉國領重清、薫匠事。」
読み下しは「今大樹幕下〔将軍綱吉〕先公のことを承り、土木の功を起こし、山城守戸田忠昌〔一六三二〜九九。老中〕に命じて、十郎左衛門尉建部昌孝・五郎左衛門尉三浦義成・八郎右衛門尉国領重清、匠事を薫ず。」である。
(土木学会土木広報センター次長 小松 淳)
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旧地名から歴史を紐解く

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CNCP個人正会員 小松崎 暁子


こんにちは。私は普段、日本のアニメのライセンスビジネスをしておりまして、土木・建設に関して専門的ではなく一般市民に近い立場なものですから、このCNCP通信への投稿も素人的な話題になってしまいますが、よろしくお付き合い下さい。
今回は「旧地名」という話題を取り上げてみようと思います。
弊社の事務所がある台東区小島というところは1960年代まで「御徒町」と呼ばれていて、周辺は眼鏡店や宝飾店がとっても多く、この町の歴史を紐解いてみたくなったのです。
「御徒」って何?という疑問から調べてみると、戦国時代に馬ではなく徒歩で移動した下級武士のことだそうで、江戸城北方の護りとしてこの地区に多く住んでいたそうです。
幕末の頃になるとだんだん武士も生活が苦しくなり、内職のような仕事を請け負うようになります。春日通りを一本入った路地には革職人や江戸切子を卸しているお店も軒を連ねていて、時代劇の定番、侍が傘張りをしていたり、油売りや髪結い屋、一心太助のように天秤をかついだ魚屋や「とーふー」の豆腐屋などの物売りが行き来したり、賑やかな江戸の町を想像すると楽しくなります。
上野や浅草も近く、神社仏閣が集まっていることから神具仏具やお仏壇の装飾品を修理する仕事を頼まれることが多かったのではないかと言う人もいます。
その後、第二次世界大戦も終わり、米軍基地の横流し物資がアメ横で販売され始め、アクセサリーや時計の修理などの需要が増えたのでしょう。
歴史を探りながら小道を散策してみると、弊社のアニメビジネスと直結するキャラクターグッズを製造販売する老舗の職人さんとつながることができました。新しいアニメ業界も伝統工芸で表現すると今までにない世界が創造されて面白いものです。
さて、古くからの地名には先人の教えが伝えられていると言われます。何度も水害に見舞われる地名を遡ると「龍」「蛇」「沼」など水や川を連想する漢字が含まれていることも多く、「亀」「駒」などの地名も昔は低地や地盤の緩い地区だったことから地盤沈下や水害にあっているところがあるようです。
私の住む埼玉県吉川市も明治初期の頃は「芦川」という地名で、「芦が茂っている湿地帯」という意味であったと伝えられています。「平沼」「皿沼」「小松川」「川富」「川内」と、今も残る地区名から水害と戦ってきた歴史が伺えます。100年以上前から治水工事が繰り返され、技術的な進歩のおかげで今では家屋が浸水することはほぼなくなりましたが、近年の「数十年に一度の豪雨」などという異常気象には、想定の範囲を広げておかなくてはならない、と感じているところです。
皆さんも秋の夜長に縁のある地域の旧地名から歴史を紐解いてみてはいかがでしょうか。
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