2019年04月01日

「福島だより」

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シビルNPO連携プラットフォーム 個人正会員
(株式会社小野工業所)
臼田 總一郎


私が勤務している株式会社小野工業所は福島市の西側で吾妻山連邦の麓に位置し、周辺には高湯温泉、土湯温泉、飯坂温泉などの温泉も多く、また、昨年度の日本酒品評会では金賞受賞銘柄数が6年連続で日本一となり、おいしいお酒には事欠かない環境です。私にとっては2度目の福島で、1度目は1977年から1980年にかけて東北新幹線の工事に伊達郡伊達町(現:伊達市)で携わっていました。その頃、歴史に疎い私は伊達と言えば「伊達政宗」で仙台ではないのか?伊達町との関係は?などを疑問には思っていましたが日々の仕事に追われ、そのまま過ぎて今日まで来てしまいました。2度目の勤めにあたって昔の疑問を思い出し、よくご存じの方もいらっしゃると思いますが、私なりに少し調べてみましたので、紹介させていただきます。

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会社付近から見た吾妻山連邦

10世紀の初頭に全国の各郡において人口や経済力を平均化するため、分割や再編が行われました。その中で、福島盆地域ではそれまでの信夫郡が分割され伊達郡が作られました。当時の読みは「いたち」「いたて」「いだて」などと呼ばれていたようです。また、慶長18年(1613)に支倉常長がローマ教皇に渡した伊達政宗の書簡には「Idate Masamune」とあったそうです。
文治5年(1189)の夏、源頼朝が率いる大軍が奥州平泉の藤原泰衡を討つために伊達郡まで侵攻し、伊達郡国見町の厚樫山(国見山)山麓で決戦となりました。この合戦で泰衡配下の信夫庄司佐藤氏を倒したのが関東武士の中村入道念西で、中村氏は頼朝から恩賞として伊達郡を拝領し、姓を「伊達」に改め、この地に住むようになりました。初代の伊達朝宗は高子岡城(伊達市保原町)を構え、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し亀岡八幡宮を山上に祭りました。その後、伊達氏は居城を梁川、桑折、米沢などに移し、17代の政宗のときに、豊臣秀吉によって伊達郡を含む旧領を召し上げられ、天正19年(1591)に岩出山城へ、慶長8年(1603)に仙台城へと移り、現代に至っています。伊達家には「政宗」と名乗る人物が二人いました。一人は「独眼竜」として広く知られている17代政宗で、もう一人は伊達家中興の祖といわれる9代政宗です。文武の才に恵まれた9代政宗にあやかって17代政宗が名付けられたそうです。

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6年連続金賞日本一のお酒

伊達市内や周辺には「高子岡城跡」「梁川八幡神社」「梁川城跡」「霊山神社」など多くの伊達家関係の名所、旧跡があります。休日の散策場所には事欠かない状況です。
次にかつて新幹線工事に携わっていたころの伊達郡伊達町が伊達市になった経緯についても調べてみました。平成の大合併のときに伊達郡の伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町、桑折町、国見町、川俣町、飯野町の9町による郡全体での合併が検討、協議されましたが、川俣町と飯野町は福島市との合併検討のために抜け、その後、桑折町と国見町が抜け、残った5町での合併となりました。また合併後の新市名については北海道に伊達市があることと自治省において既存の市との同名は避けるようにとの通知があったことから、「伊達市」を除くことで公募され、1位となった「だて市」のほか、「桃花市」「あぶくま市」「新伊達市」「伊達みらい市」などが上位の候補でした。新市名としては公募で1位となった「だて市」が選定されましたが「既存市から異議がなければ問題ない」との自治省の見解から、詳細な経緯は不明ですが、最終的には公募で除いていた、漢字表記の「伊達市」に決定され、今日に至っています。福島はこれからが一番いい季節です。梅、桜、梨、桃、林檎などの花が咲き乱れ、おいしいお酒を酌み交わしながらの花見は最高です。皆様、是非お出かけください。

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高子城跡 山上の亀岡八幡宮

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高子岡城跡

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梁川八幡神社
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第12回 「インフラ」ということば

国立国語研究所「外来語」委員会が2003年(平成15年)から2006年(平成18年)の4回に分けて公表した『「外来語」言い換え提案―分かりにくい外来語を分かりやすくするための言葉遣いの工夫―』掲載の外来語176語のうち略語の方がよく使われるとして「インフラ infrastructure」だけが略して掲載された。「インフラ」はすでに独立して用いられることばとなっている。ここでは、言い換え語を「社会基盤」、意味説明を「交通、通信、電力、水道、公共施設など、社会や産業の基盤として整備される施設」としており、現在「土木」にもっとも密接なことばである。
外来語「インフラストラクチャー」は、初出として、フランスの証券取引新聞(1857年3月8日)に、サンクトペテルブルクからワルシャワまでの鉄道路線敷設の記事でinfrastructureとsuperstructureが対になって用いられているのがインターネットで確認できる。当初は文字通り、下部構造と上部構造の意味であり、英国の新聞The sun(1889年11月10日)にも" In all railway construction engineers are obliged to consider the infrastructure and the superstructure. (あらゆる鉄道建設において、技術者は下部構造と上部構造を考慮する義務がある。)"と、ここも鉄道分野で対になって使われている。
その後、1951年の北大西洋条約機構NATOの北大西洋理事会コミュニケで、欧州防衛のための恒久的な基地や施設を示すことばとして使われ、次第に広く基盤を意味するようになって、日本では「インフラ」として普及したのである。 (土木学会土木広報センター次長 小松 淳)
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第4回 制度設計をも変える市民の科学

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シビルNPO連携プラットフォーム 理事        
(特非)あらかわ学会 副理事長兼事務局長 三井 元子


1.「地域の意見を反映した河川整備推進」のはじまり
1997年(平成9年)に河川法改正があり、日本の河川行政は大きく変わった。河川を治める理由に「治水・利水」に加え、「環境」が入ったのである。同時に、「地域の意見を反映した河川整備を推進」との一文が加わり、市民参画が位置づけられた。
実は、これに先駆けて荒川下流河川事務所では、おおむね50年先を想定して荒川下流全体のゾーニングを考える「荒川将来像計画」全体構想書(案)と沿川2市7区の「荒川将来像計画地区計画書」(案)9冊を作っていた。そしてこの案を沿川2市7区の本庁舎のみならず、すべての出張所で開示して意見募集を行った。完成した将来像計画には、171件集まった意見と、これに対する回答または見解が載せられていた。まだ、パブリックコメントも始まっていない時代にである。沿川の市民団体は横に連携し、「市民版荒川将来像計画」を作成して公表したり、官民共催のシンポジウムを開いたりして協力した。さらに、「荒川市民会議」が2市7区それぞれに設置され、国交省荒川下流河川事務所・自治体土木部・公募した市民・利用団体等が一堂に会して、どんな荒川にしたいのかを話し合い、整備していった。沿川各市区の市民団体は、積極的に参加して、横の連絡を取り合い、計画が絵に描いた餅にならないよう努力した。(市民会議は2015年まで続き、現在は開催されていない)このような活動が評価され、地域の意見を反映した河川整備の推進という法改正につながったのである。

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さらに荒川では、多様な人々が集う荒川における合意形成手法として任意団体「あらかわ学会」の創設が考えだされ、1996年10月、これに賛同する人々によって設立総会が開催された(2003年にNPO法人化)。私は、定款作りから関わり現在まで副理事長兼事務局長を務めている。官も民も大人も子どもも同じ目線で荒川(上下流)について平等に議論が出来る場が出来たのである。年次大会では、荒川に関する調査・研究・体験活動・提言などが発表され、今年で22回目を数えた。

2.河川協力団体制度の成立
(1)設立の経緯
全国の河川では、様々な市民団体が活発な活動を行っていた。これに呼応するように、2013年(平成25年)6月、水防法及び河川法の一部が改正され『河川協力団体制度』が創設された。
設立の経緯を見てみると、2013年(H25年)4月の社会資本整備審議会の「安全を持続的に確保するための今後の河川管理のあり方について」という答申において、以下のような審議がなされたことがわかる。2000 年(H12 年12月)河川審議会答申「河川における市民団体等との連携方策のあり方について」で指摘されていた課題が、現在もほとんど解決されておらず「市民団体等について、その持続的な活動を促進するために必要な河川の管理上の位置づけがなされていない」為、具体的な取り組みとして「河川環境等、河川の管理における役割を期待されている地域の市民団体等について、地域の資源として河川を利活用するニーズの拡大も踏まえて担い手としての位置付けを明確にする制度整備を行うべきである」との答申が提出され、河川協力団体制度が創設された。

(2)河川協力団体制度

河川の維持、河川環境の保全などの河川の管理につながる活動を自発的に行っている民間団体等を『河川協力団体』として法律上位置付け、河川管理者と河川協力団体が充実したコミュニケーションを図り、互いの信頼関係を構築することで、河川管理のパートナーとしての活動を促進し、地域の実情に応じた河川管理の充実を図ることを目的として制度化されました。
河川協力団体の活動
1.河川管理者に協力して、河川工事または河川の維持をおこなう
2.河川の管理に関する情報又は資料の収集及び提供
3.河川の管理に関する調査研究
4.河川の管理に関する知識の普及及び啓発

※河川協力団体は、河川管理者が特に必要があると認めるときは、河川法99条により、
河川の管理に属する事項の委託を受けることが出来ます。
※国土交通省HPより http://www.mlit.go.jp/river/kankyo/rcg/seika.html

運用に関しては、全国の地方整備局又は河川事務所の姿勢によってかなり異なり、まだまだ設立の趣旨が反映されているとは言えないことが多い。しかし、その川に長く関わり、様々な川及び人々の関わりの歴史を知っている市民団体こそ、その市民科学を活かして、河川管理のパートナーとして活躍していきたい。そこで、市民団体が連携して「河川協力団体全国協議会」を作って問題の解決に向かっているところである。

<参考資料> CNCP通信Vol 55「荒川下流における市民の活動」
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