幕末から明治にかけて漢語由来の「土木」「建築」「建設」が使われるようになる一方、「建つ/建て」「立つ/立て」に語勢を強める接頭語「取り」を付けた和語の「取建」「取立」は使われなくなっていった。江戸から明治にかけての出来事を編年体でまとめた『武江年表続編』(斎藤月岑、1882年)の明治三年(1870年)に「正月、神田玉川両上水修復補益の為、小石川御門外神田川の端へ、土木司より水車御取建に成り、米穀舂立(つきたて)始まる。」とある。
古くは、『吾妻鏡』(1300年頃)の安貞二年(1228年)十月十八日「昨日午尅。筥根社壇燒亡之由。馳參申之。〔中略〕依風顛倒屋々被取立之條不可有其憚云々。」(昨日の昼頃に、箱根神社の神殿や仏閣が焼けたと走って来て報告しました。〔中略〕風によって倒壊した建物を修理するのは、何も懸念することは無いとの事です。)とあり、『徒然草』(吉田兼好、1330年頃)第二十五段に「金堂はその後たふれ伏したるままにて、取りたつるわざもなし。」とある。
イエズス会宣教師らが編纂した『日葡辞書』(1603年)では、「建立」「造営」「普請」「作事」と一緒に「Toritate, tçuru, eta. トリタテ,ツル,テタ(取り立て,つる,てた)建築する,すなわち,家を建てる.¶また,人を,その元の本来の地位に再びつけてやる.」とある。「土木」は採録されていない。
現在の「取立」は、日葡辞書の後者の「人を登用する」のほか、借金などを「強制的に徴収する」、作物などを「取って間がないこと」の意味になっている。
〈参考〉吾妻鏡入門(歴散加藤塾サイト)、邦訳日葡辞書(1980、岩波書店)
(土木学会土木広報センター次長 小松 淳)
2019年07月09日
第15回 「取建/取立」ということば
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働き方改革など制度づくりの目線は奈辺に
左官職人だった父は生涯で13人の弟子をとった。九州の片田舎で、まだ徒弟制度が残っていた。同じ集落であれば自宅通いが認められていたが、基本は住み込みで、寝食を共にした。最後の弟子は同級生で通いだったが、家には中学時分までは常時、最低2人は住み込みの弟子がいた。職人に免状があるわけでもなく、親方で師匠の父の許しがあれば一人前の職人として独り立ちし、一家を構えることができた。戦後も10年以上が経ち、高度経済成長期に入っていたせいか、父は月々決まった給金を渡していたようだが、一般的には弟子にとってあってないようなものが定額の手当てだった。そんな中、中学卒で弟子入りした同級生は、20歳の成人式を前後に独立し、大阪に出て一家を構え、竹中工務店の出入り業者となり、ほどなく会社を旗揚げして数年前まで、孫請けとして羽振りをきかせていた。一方、12人目の弟子は4歳上の小生の実兄である。家督は長子の、この兄が継ぎ、左官や土工が主ながら会社法人に衣替えして40年以上、細々と工務店を営んでいる。
2人(兄と同級生)と同時期に働いていた兄弟子は3人だった。ほかにも職人はいたが、同門の兄弟≠ヘ5人というわけである。この兄弟子たちが、父が見ていないところで兄や同級生を殴るのを何度も目にしたことがある。その兄弟子たちには、中高生の夏休みや冬休みに現場を手伝いに行った時、バケツに入れたセメント(セメント粉と水だけで練った「ノロ」と呼んでいた)を木組みの足場伝いに2階に運ぶのが一呼吸遅れただけで「遅い!」と、有無を言わせず頭からかけられたり、手渡した直後に足蹴にされて2階の足場から突き落とされたことが何度かある。気性が荒く一本気で、親方の二男坊だろうがお構いなしだった。ただし、のべつそうかというと、仕事以外では正義感に燃え、気のいい優しい兄さんたちなのである。そんな気風やありようが好きなのが伝わっていたのか、普段は随分と可愛がってもらった。
時は移り、あの時代から半世紀近くになる。程度問題とはいえ当時は、世間的には「いじめ」や「パワハラ」の概念はなく、個人的にも意識さえなかった。しかし、現在に目を転じると、現場でストレスを溜め込むような環境が完全に払しょくされたわけではないだろう。職場に立場の優劣の関係は常にあるからである。それは個人間にとどまらず組織間にもある。だから、目線や立ち位置は低くなければならない、と思うのである。上からではなく、下からの積み上げに課題解決の本質的な道理があると確信するからである。そういえば、建設キャリアアップシステムや働き方改革などに素直になれないのはその所為か。
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歴史を振り返り歴史に学ぶ
平成から令和へ移行するときに、“平成時代30年を振り返る”特集などが多く組まれ、しばしば執筆依頼やインタビューに応ずる機会があった。こういう企画では、大方の人が30年を振り返るとともに、これからの30年を展望してみたいと考える。2014年に土木学会が100周年を迎えた時、記念事業の一環として「社会と土木の100年ビジョン」を策定するという壮大な企画を実施した。そのためにはまず、100年を振り返り、さまざまな観点からこれを分析し理解することから始めることになる。明治150年の折には、当プラットフォーム通信でも、1年間のシリーズとして明治150年への思いを何人かの方に執筆頂いた。長年携わってきた仕事と関連づけて書かれる方が多く、思いのほか意義深いシリーズとなった。
昨年から中村英夫先生が主宰する「戦後70年のインフラ整備」連続講演会企画がスタートし、その第6回で「首都圏国鉄5方面作戦」を取り上げることとなり、数か月にわたり歴史をひも解く作業に追われた。この作業をJRグループの若手の皆さんにやってもらい、資料をスライドの形で収集し、ワークショップ形式で議論しながら、取捨選択して講演パワーポイントに仕立て上げることにした。そして第2次世界大戦後の輸送混乱期から高度成長期にいたる5方面作戦の骨格を理解し、そのDNAが現在の輸送改善に継承されてきた姿を検証した。この機会にまとめられた資料やスライドは、今後も若手の皆さんが“歴史に学ぶ”貴重なツールになると思う。
さて新たなプロジェクトを構想するときに、背景としてのその地域の歴史や経緯を紐解くことは大変重要である。未来を構想するヒントが隠されているし、さりげなく残されている古い構造物の価値を再発見して、遺産として有効に活用しようというきっかけにもなる。私の鉄道生活は、高度成長期での首都圏通勤輸送対策に明け暮れていたが、都心のプロジェクトは一朝一夕になるものではなく、構想から実現まで数十年を要するものも少なくない。今、オリンピックを目標に急ピッチで進められているJR東日本の渋谷駅改良工事、山手線ホームと埼京線ホームを並べて2面4線にする難工事だが、その構想は1960年代から始まっていたもので、半世紀かかって実現にこぎつけた代物である。これをみても少なくとも30年くらいの経緯は調べる必要があると思う。

写真 渋谷駅改良工事
国鉄で仕事をしている頃は、何となく国家意識があって、国全体の鉄道輸送をどうするか考える習慣が身についていた。始めから民間企業であるJRに勤めれば、当然のことながらプロジェクトを考える時も、企業の論理が優先するのはやむを得ないことである。しかし長い国鉄の歴史からみるとJRはたかだか30年の歴史しかないともいえるわけで、多くの国民がJRを“一民鉄”とは見ていないのも事実である。そこで、ここ10年ほど若手の調査計画技術者とワークショップ研修を積み重ねてきたが、その中で二つの点をアドバイスしている。
〇 一つは、鉄道を考える前に交通を、交通を考える前にまち(街、都市)を考えようと。
〇 二つは、例えばある駅改良ならば、その地域全体の歴史と現況そして駅の歴史と改良の経緯を整理しようと。
〇 最後は余談である。東京駅などは、まさに歴史とエピソードの宝庫であろう。
大正時代に建設された赤レンガの東京駅本屋は、終戦直前の空襲で焼け落ち、3階部分を除いた仮復旧の姿で半世紀を過ごすこととなった。復旧の際に
連合軍総司令部(GHQ: General Headquarter)鉄道輸送事務所(RTO:
Railway Transportation Office)の特別待合室が設けられたが、そこに建築家の中村順平ほかの方々からなる大きな壁画・レリーフが飾られた。この歴史的な経緯は文献でご覧いただくとして、進駐軍の撤退後の部屋は事務室などへ転用されてきたようである。1970年代の半ばになり、私が東京駅担当の工事課長時代に取り組んだ改良の際、取りあえずレリーフを在姿のまま保存しておこうと仮壁で覆って保護し、以降、赤レンガ復原工事が始まるまで忘れられた存在となった。そして幻の壁画発見!!という新聞報道にびっくりしたが、大げさに言えばRTOレリーフが“文化遺産”になった瞬間であった。現在は東京駅京葉線地下駅のコンコース階に展示され、通勤客の目を楽しませているのは嬉しいことである。

写真 RTO待合室 旧国鉄資料

写真 京葉線地下コンコース
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