2020年05月01日

故郷が教えてくれたこと−共生(ともいき)の大切さ−

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シビルNPO連携プラットフォーム前理事、個人正会員
大田 弘


私は日本有数の急流河川・黒部川沿いの山村、富山県旧宇奈月町で生を受けた。宇奈月は100年ほど前から黒部川の水力発電開発の拠点となった所で、最上流部には黒部川第四発電所(1963年完成/通称:クロヨン/殉職者数171名)がある。“クロヨン”が完成した時は小学5年生、小学校にあった村唯一のテレビで、クロヨン完成の様子をみんなで観たが、この工事で同級生の父親が命を落としたことも知った。当時、作文に「大きくなったら安全にダムをつくる土木技術者になりたい」と綴った。そして、1968年に公開され、観客動員733万人の空前の大ヒットとなった映画「黒部の太陽」(主演:石原裕次郎、三船敏郎)を観て感動し、土木を立志、裕次郎が演じた建設会社に入った。土木であれば“裏日本”“山村”の出身者でも都会人には負けないだろうとの漠然とした思いもあった。

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入社後は、ブレーキもバックギアも持たない“暴走族”(当時は企業戦士ともいった)と化した。この45年間、故郷を振り返ることは一切なかったが、昨年の7月から生活の拠点を東京から宇奈月に変えた。生まれ故郷への移住である。“田舎を捨てた”不届きものであるにも関わらず、何事も無かったかのように集落民は私を温かく迎え入れてくれた。家の周りの草を刈ったり、倒木を片付けたり、村の行事に参加するなどの日々を送っている。

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これまでの人生をボッーと振り返る中で、小さい頃のことがつい最近の事のように蘇ってくる。家の敷地内に流れている農業用水の水門を開閉させて遊んでいた時のこと。祖父からこっぴどく叱られ納屋に閉じ込められた。この集落は水が豊富な黒部川との比高差は100mほどの隆起性旧扇状地(台地)であり、米作に必要な十分な水が得られず養蚕や煙草葉・果樹栽培で何とか生き抜いてきた。90年前に土木技術の発達、水力発電事業との連携強化などから、黒部川からの引水により米作が可能となった。しかし、水を巡る争い(我田引水)が絶えなったので、選ばれた数人の大人が掟に基づいて公平な水門操作を行っていたのだ。

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“円筒分水槽”をご存知だろうか。 “1”箇所の取水坑に湧き出る水が“3”箇所の用水路に作付面積に応じて公平に分配される仕掛けである。これによって3地区共同で取水口を集中化・大型化することで安定的な取水が可能となっただけでなく、身勝手な水の奪い合いが無くなった。
水が豊富な時の恩恵は、3地区が公平にウインウインとなる。最大の妙は水が少ない時には、これまた3地区が公平にガマンガマン、つまり共生(ともいき)である。

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60年前に“過疎”、40年前には“中山間地”、そして20年前には“限界集落”と云う警鐘語が生まれた。高度経済成長の副作用として東京などへの一極集中が過度に進行し、この数年、地方創生が叫ばれているが、一筋縄では行かないようである。
また、成熟社会は一見、多様化を実現しつつあるようにみえる。しかしそれが目先の経済的な損得に重きをおいた無味乾燥な「個人化」の進展であれば、幸せとはほど遠い社会が到来する。多様な価値観とは何でもありではない。それぞれの判断で人生を設計し、それぞれの責任で歩まなければならない。それは決して容易なことではない。これまで先人たちが力を合わせて築き上げてきた智慧から学ぶことの大切さを思い起こしつつ、共生(ともいき)の約束事(利他心/道義心)を土台とし、その上で個々人の価値観を際立たせることができる社会を目指すべきではないだろうか。
国家や地域、人は本質的には多様である。経済効率や経済成長を優先するあまりに、多様であるべき文化や価値観があくなき利潤を追求するグローバル市場になぎ倒され、様々な矛盾が顕在化してきているのではないか?地方創生や一億総活躍、女性活躍などの目的が経済再成長を促すためではなく、それぞれが、かけがえのない人生を送れる多様な価値観が尊重される国へと豊かさの質を転換するための方策であってもらいたいと思う。
まさに”共生(ともいき) “の回復が国難突破の鍵となるような気がする。期待感もこめて。
結びに、昨年、アフガニスタンに凶弾に倒れた中村哲医師のことば「現地の願いは三度のご飯と故郷での平和な暮らしだけ。今、100か所の診療所、100人の医師よりも一本の用水路が必要だ」改めて重く受け止めたい。

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第4回松平伊豆守信綱と野火止用水と金鳳山平林寺

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シビルNPO連携プラットフォーム常務理事 土木学会連携部門長
土木学会 教育企画・人材育成委員会 シビルNPO推進小委員会 委員長
メトロ設計梶@技術顧問 田中 努


私の住まいの近くに「平林寺」があり、その北側に「野火止用水」が流れています。多くの場所で緑道になっていて、気持ちの良い散策路です。水の流れと緑の木々は、安らぎの必須アイテムですね。

1.野火止用水とは
「野火止用水」は、1655(承応4)年、川越藩主松平伊豆守信綱により、野火止台地の新田開発<資料B>として開削された用水路で、<図1>のように、「玉川上水」から、野火止台地を経て、荒川支流の新河岸川までの全長24kmに及びます。「玉川上水」と「野火止用水」の分水割合は「七分は江戸へ通じ、三分は信綱へ賜はり、領内へそゝげり(新編武蔵風土記)」と言われ、野火止の開拓民や移転してきた平林寺、陣屋等の貴重な飲料水・生活水として使われていました。

<資料@>
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2.野火止用水の歴史
地元、新座市のまとめ<資料C>によると、以下のようです。
徳川家康が江戸城へ入府してから50年程が経つと、江戸の人口増による水不足がおこり、1653(承応2)年、幕府は多摩川から水を引く「玉川上水」を掘ることにしました。総奉行として老中の松平伊豆守信綱(当時川越藩主)が指揮し、難工事に人材投入をしたようで、翌1654(承応3)年に完成しました。
総奉行の信綱は、その功績が認められ、領内の野火止に「玉川上水」の分水を許されました。翌1655(承応4)年の2/10〜3/20のたったの40日間で、関東ローム層の乾燥した台地、生活用水に難渋していた野火止の地に、用水が流れて来たとのことです。用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところには「版築法」などにより堤を築いたそうです。費用は三千両とのこと。
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■版築法(はんちく)とは
中国から伝わった壁や土壇の築造法で、板で枠を造り、中に小石・石灰・ニガリ等を混ぜた土を少しずつ入れて杵で突き固め、塊にする工法のこと。現在、日本でも、左官工法の1つとして残っている。「版」は木の板で造られる枠、「築」は杵を意味し、城壁・河道堤防・軍営壁塁などの築造に用いられ、唐以前の万里の長城はこの工法によるという。
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川越藩は、野火止の耕地を短冊形に区画して農民を入植させ、新しい4つの村、野火止・西堀・菅沢・北野(新座市)を創り、さらに周辺の他領16村をはじめ、松平家の一門や家臣まで開発に参加させるという大規模な新田開発を行いました。

その後、1662(寛文2)年に新河岸川に懸樋をかけ、用水が対岸の宗岡(志木市)に引かれ、また、分水が館村(志木市)や宮戸新田(朝霞市)の水田耕作にも使用されるようになりました。こうして「野火止用水」は飲料水だけでなく、田用水としても利用されるようになりました。豊かな水を得た人々は、この用水に深く感謝し、後世に「伊豆殿堀(いずどのぼり)」と呼んだと言われます。「野火止用水」は、開削以来、台地と人々の心を、その清らかな流れで潤してきたようです。

3.金鳳山平林寺
「平林寺」は、<資料D>によると、1375(永和元)年、南北朝時代に、武蔵国埼玉郡(さいたま市岩槻区)に創建されたそうです。
戦国時代には、豊臣秀吉による小田原征伐の戦禍を受け、多くの伽藍を失い、聯芳軒(れんぽうけん)が辛うじて焼け残る有様でした。その後、関東に領地替えとなった徳川家康が鷹狩に訪れ、休息のために聯芳軒に立ち寄ったそうです。軒主から由緒を聞いた家康は、「平林寺」の再興を約束、復興資金と土地を寄進しました。さらに鉄山宗鈍禅師を平林寺住持として招聘し、1592(天正20)年、「平林寺」の中興が果たされ、新たな歴史を刻んでいきます。
家康の関東入部を共にした家臣の大河内秀綱は、「平林寺」の大檀那となって再建を行いました。秀綱は、野火止用水を開削した信綱の祖父です。信綱は、祖父・父を「平林寺」に弔い、代々に渡って菩提寺としてきました。その信綱自身が1663(寛文3)年に没し、「平林寺」を岩槻から野火止に移し、「平林寺堀」を作って、水を引いたとのことです。

4.野火止用水をあるく
「野火止用水」は、戦後の復興と高度成長に伴って汚れ、東京の水不足で「玉川上水」からの分水も止められました。しかし<資料E>によると、文化庁により2000年度から実施された「農林水産業に関連する文化的景観の保存・整備・活用に関する調査研究」によって、全国180カ所の保全すべき重要地域の1つに選定されました。信綱が開削した24kmの内、現在も18.6kmに流れが残されています。
それでは、現在の「野火止用水」をご紹介しましょう。<資料A>に「野火止用水をあるく」お勧めルートが示されていますので、是非ダウンロードして見てください。<図2>のように駅からのルートも示してありますが、私は、特に赤線の区間をお勧めします。

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まず「ああ、用水なんだ」と感じるのが、<写真1>の「用水史跡公園の分岐点」。「平林寺」の北を流れていく本流と、平林寺境内に導かれる「平林寺堀」への分岐です。ここは、幅が狭く、いつも勢いよく流れています。
<写真2>は、「平林寺堀」で右は境内。新緑の木々を吹き抜けるそよ風の中を、用水の水音を聞きながら歩く、気持ちの良い堤です。
<写真3>は「伊豆殿橋」。幅員は対向2車線、橋長は用水幅を絞って2m弱。
<写真4>は、平林寺の北側を流れる「野火止用水」の本流。左は民家で車は滅多に来ない歩き易い道。老夫婦の散歩、家族連れ、ジョギングなど、様々な人に好かれています。
<写真5>は、川越街道の近くの野火止公園付近。この区間の法面は草木が茂っています。
<写真6>のような水鳥に会うことも。

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■参考資料
@野火止用水〜多摩川の水を野火止台地、さらに荒川右岸まで〜(パンフレット)、国土交通省荒川上流河川事務所
A文化財散策ガイド2「野火止用水をあるく」(新座市教育委員会)リーフレット
B野火止新田開発関係資料、県指定有形文化財古文書(新座市教育委員会)
C野火止用水をあるく(新座市生涯学習スポーツ課文化財担当):https://www.city.niiza.lg.jp/site /bunkazai/nobitomeyousuiwoaruku.html
D平林寺:http://www.heirinji.or.jp/about/
E野火止用水・平林寺の文化的景観保存計画、平成24年3月、埼玉県新座市(全160ページ)
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故郷が教えてくれたこと−共生(ともいき)の大切さ−

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シビルNPO連携プラットフォーム前理事、個人正会員
大田 弘


私は日本有数の急流河川・黒部川沿いの山村、富山県旧宇奈月町で生を受けた。宇奈月は100年ほど前から黒部川の水力発電開発の拠点となった所で、最上流部には黒部川第四発電所(1963年完成/通称:クロヨン/殉職者数171名)がある。“クロヨン”が完成した時は小学5年生、小学校にあった村唯一のテレビで、クロヨン完成の様子をみんなで観たが、この工事で同級生の父親が命を落としたことも知った。当時、作文に「大きくなったら安全にダムをつくる土木技術者になりたい」と綴った。そして、1968年に公開され、観客動員733万人の空前の大ヒットとなった映画「黒部の太陽」(主演:石原裕次郎、三船敏郎)を観て感動し、土木を立志、裕次郎が演じた建設会社に入った。土木であれば“裏日本”“山村”の出身者でも都会人には負けないだろうとの漠然とした思いもあった。

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入社後は、ブレーキもバックギアも持たない“暴走族”(当時は企業戦士ともいった)と化した。この45年間、故郷を振り返ることは一切なかったが、昨年の7月から生活の拠点を東京から宇奈月に変えた。生まれ故郷への移住である。“田舎を捨てた”不届きものであるにも関わらず、何事も無かったかのように集落民は私を温かく迎え入れてくれた。家の周りの草を刈ったり、倒木を片付けたり、村の行事に参加するなどの日々を送っている。

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これまでの人生をボッーと振り返る中で、小さい頃のことがつい最近の事のように蘇ってくる。家の敷地内に流れている農業用水の水門を開閉させて遊んでいた時のこと。祖父からこっぴどく叱られ納屋に閉じ込められた。この集落は水が豊富な黒部川との比高差は100mほどの隆起性旧扇状地(台地)であり、米作に必要な十分な水が得られず養蚕や煙草葉・果樹栽培で何とか生き抜いてきた。90年前に土木技術の発達、水力発電事業との連携強化などから、黒部川からの引水により米作が可能となった。しかし、水を巡る争い(我田引水)が絶えなったので、選ばれた数人の大人が掟に基づいて公平な水門操作を行っていたのだ。

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“円筒分水槽”をご存知だろうか。 “1”箇所の取水坑に湧き出る水が“3”箇所の用水路に作付面積に応じて公平に分配される仕掛けである。これによって3地区共同で取水口を集中化・大型化することで安定的な取水が可能となっただけでなく、身勝手な水の奪い合いが無くなった。
水が豊富な時の恩恵は、3地区が公平にウインウインとなる。最大の妙は水が少ない時には、これまた3地区が公平にガマンガマン、つまり共生(ともいき)である。

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60年前に“過疎”、40年前には“中山間地”、そして20年前には“限界集落”と云う警鐘語が生まれた。高度経済成長の副作用として東京などへの一極集中が過度に進行し、この数年、地方創生が叫ばれているが、一筋縄では行かないようである。
また、成熟社会は一見、多様化を実現しつつあるようにみえる。しかしそれが目先の経済的な損得に重きをおいた無味乾燥な「個人化」の進展であれば、幸せとはほど遠い社会が到来する。多様な価値観とは何でもありではない。それぞれの判断で人生を設計し、それぞれの責任で歩まなければならない。それは決して容易なことではない。これまで先人たちが力を合わせて築き上げてきた智慧から学ぶことの大切さを思い起こしつつ、共生(ともいき)の約束事(利他心/道義心)を土台とし、その上で個々人の価値観を際立たせることができる社会を目指すべきではないだろうか。
国家や地域、人は本質的には多様である。経済効率や経済成長を優先するあまりに、多様であるべき文化や価値観があくなき利潤を追求するグローバル市場になぎ倒され、様々な矛盾が顕在化してきているのではないか?地方創生や一億総活躍、女性活躍などの目的が経済再成長を促すためではなく、それぞれが、かけがえのない人生を送れる多様な価値観が尊重される国へと豊かさの質を転換するための方策であってもらいたいと思う。
まさに”共生(ともいき) “の回復が国難突破の鍵となるような気がする。期待感もこめて。
結びに、昨年、アフガニスタンに凶弾に倒れた中村哲医師のことば「現地の願いは三度のご飯と故郷での平和な暮らしだけ。今、100か所の診療所、100人の医師よりも一本の用水路が必要だ」改めて重く受け止めたい。

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