2018年11月01日

荒川下流における市民の活動

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シビルNPO連携プラットフォーム理事 事業化推進部門
シンクタンクチーム座長 三井 元子


平成30年、CNCPは、設立来これまでの活動を振り返り、ミッションに応えるべく「土木と市民社会をつなぐ」ことを基本テーマに活動を見直すと共に、土木学会との連携を「部門」として強化し、4部門の協働を強めるための「連絡調整会議」を設けたところである。
私の来歴からすると、逆に「市民社会と土木をつなぐ」活動を行ってきたので、今回はそのことを述べてみたい。

1977年頃、私の生家のある東京都足立区千住5丁目では、当時国道4号線(日光街道)の渋滞で有名となっていた「千住新橋」の拡幅と掛け替えに伴い、そのバイパス道路を旧日光街道に引くという案が持ち上がっていた。私の母は、数人の有志と共に「地域環境を守る会」を立ち上げ,その事務局長を引き受けていた。母は、深窓の令夫人とも言うべきおとなしい性格であったが、この工事にはどうしても納得がいかなかったのだろう。当時大学生であった私は、その助手として住民の署名を集めたり、区役所で開かれた会議において地域を代表して発言したりしていた。
署名の趣旨は、「歴史的価値のある旧日光街道を国道4号線のバイパス道路にすることは、歴史の軽視である。また国道の渋滞を避けて自動車が多数入ってくれば、狭い旧街道では事故が多発しかねない」というような内容であった。

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現在の宿場町通り

当時問題となっていたのは、「町会長に説明し同意を得たから地元説明は終わっている」と考える行政の姿勢であった。調べてみると、法的には町会長は,町を代表して会議には出るが、町民への説明義務はなかった。町民からすれば、寝耳に水の工事というわけである。
4〜5年の闘いの後、「道路は作るが遊歩道として使用する」いう合意がなされ、通過自動車が入ってくる計画はなくなった。その後、足立区は旧日光街道の歴史的価値を初めて認め、芭蕉が奥の細道へと旅立った最初の街道であるとして商店街の呼称を「宿場町通り」と改め、案内看板を立て始めたのである。現在では、毎日曜日に歴史散歩の方達が、のんびり歩く姿が見られるようになった。もちろん、そんな運動が街道を守ったことは知るよしもない。

結婚し、長女が小学校1年生になった1989年頃から、私は、足立区消費者グループ「せせらぎグループ」代表として河川の水質調査などに参加し、消費者展で発表したりしていた。
すると地域の環境団体からネットワークを作って、もっと環境問題を普及啓発したいと相談があり、「足立区環境ネットワークちえのわ」を立ち上げ代表となった。親子で学ぶ環境教室を主催し,毎年180名位の参加者を集めていたので、足立区行政からも注目された。
1993年、建設省(現国土交通省)が、河川環境保全モニター制度を創設し委員を募集していた為、私は足立区から推薦されて、荒川下流河川環境保全モニターとなった。荒川放水路に対しては、すぐそばで育ったと言うだけであまり思い入れはなかった。なぜなら,私が小学生のころの荒川は、高度経済成長期で川がどろどろに汚れていた時代で,あまり良い思い出がなかったからだ。
1996年(平成8年)、荒川下流河川事務所(以下、荒下事務所)では、おおむね50年先を想定した「荒川将来像計画」を作ることとなり、将来像計画全体構想書(案)と沿川2市7区の将来像計画(案)9冊を作り、各市の本庁舎のみならず、すべての出張所で開示し、意見募集を行った。まだ、パブリックコメントも始まっていない時代にである。私は、学生時代を思い出し、これで公共事業に一般の市民意見が反映できるようになるならば、世の中が大きく変わると思い夢中になった。私たちは、荒川で活躍していた市民団体と何回か勉強会を開き、「市民版将来像計画」を作って提出し、官民共催のシンポジウムを開いた。さらに、子どもたちにも将来像を発言してもらいたいと考え,3回の荒川歩きを行い、アンケートを集めた後、足立区役所において「荒川将来像計画足立こども会議」を開催した。足立区にとって、初めてのこども会議であった。

せっかくできあがった将来像計画が絵に描いた餅にならないようにと,荒下事務所に将来像計画の補完策を聞いたところ、事務所長は、各市区に「荒川市民会議」を設置することを決めてくれた。それぞれの市区で、公募された市民と沿線自治体と国土交通省が一同に会してリーディングプロジェクトの実施計画について話し合う市民会議が始まった。

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その後1997年(平成9年)、河川法改正があり、日本の河川行政は大きく変わった。河川を治める理由に「治水・利水」に加え、「環境」が入ったのと同時に、「地域の意見を反映した河川整備を推進」という一文が加わった。白書には(例えば荒川下流のように)という解説も入っていたのである!
そのころ「せせらぎグループ」では地元で全国一級河川ワーストワンの汚名を15年間も授かっていた綾瀬川で水質調査を行っていた。コンクリート3面張りの河川でどのようにしたら、生き物が帰
ってくるの来るのだろうと模索していた。越谷の礫間浄化施設を見学したり、多自然川づくりによる直接浄化が水質をよくすることを知り、綾瀬川沿川に適地がないかどうかを探した。そして、良好な湿地を形成していた民有宅地を見つけ、買い取りを国に提言した。その後、川とつなげたビオトープを作ってもらい、綾瀬川浄化に役立てることになるのだが、どうやって行政を動かしたのかについて、また別の機会にお話しすることにしよう。
ところで、パブリックコメントは、今では各省庁で常識のように行われているが、形骸化し、意見がなくても実績さえ残れば良いという使われ方をしている事が多い。市民がせっかく手に入れた権利を、望みを、私たちは失ってはいけないし、行政も真剣に意見を募集して協働・協創の社会を築いて行ってほしい。それがこどもたちの未来につながっていくのだから。
posted by CNCP事務局 at 00:00| Comment(0) | 地域社会等
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