中国の人って土木のことどう思ってる?CNCPの理事さんから聞かれた。中国の社会開発や市民社会支援の事業に長い間従事した経験から、約14億の民に対しステレオタイプで答えるには勇気がいる。しかし、大きく外さないだろうと確信できる答えが1つある。多くの中国の人が恐らく今でも、土木は“国家の大計”と思っているだろうということだ。
1989年2月、作家の戴晴(当時は新聞記者)が三峡ダム建設計画に対する“反対派”の論点をまとめた『長江長江―三峡工程論争』が刊行された。翌月の全国人民代表大会で272 名の代表が建設の早期実施に反対し、姚依林副首相(当時)は最低5年間の延期を表明した。しかし、天安門事件が起こると戴晴は逮捕され、本は発禁、反対派の一部は「右派」とみなされ失脚へ。土木は国家の仕事、土木は政治、市民が登場する余地はなかった。
市民が登場するのは2000年に入ってからだ。01年3月、中国初の“公聴会”が開かれた。“”としたのは、主催者が政府ではなかったからだ。北京市は、汚染と施設の老朽化のため市内の河川、湖沼の治水工事に着手していた。昆玉河の工事もその1つで、土手や土底をコンクリート水路に置き換えていく。生態環境への影響を心配したのは「自然の友」「地球村」「緑家園」という“純民間”の環境三団体。社会主義体制下では、従来、人も企業も事業体も社会組織もみな国のもの。しかし、市場経済化の進展とともに社はパブリックヒアリングという仕組みがあるらしい…北京政府や関係者を招へいし意見交換したらどうか…。後に公聴会は政府や起業者が開くものと知り、「対話会」と名を改めたそうだ。会の終盤、副市長が「非合法組織の組織活動」と一声を発し、その場でメディア各社に報道禁止を言い渡した。
同年、市民参加と環境の重視を条件に「08北京五輪」の開催が決定すると、活動家による “声を公にしていく”ための少々手荒なアクションが増えていった。当時、環境団体は自然や野生動物の保護、ゴミ分別の普及などを主な活動に掲げており、環境は政治から最も遠い分野だった。よって当局は”認めず、近寄らず、取り締まらず”。 裏を返せば、NGOが政府との接点を持つことは極めて困難だった。活動家達は国際会議などの機会を利用して、時には場を占拠するような行動を起こし、訴え、主張を叫んだ。かくいう私も、某パネル討論会の席上「日本のODAで建設中のダムの影響をどう思うか」と突然やられたことがある。

それが国や地方政府による土木事業に影響を与えていくアドボカシー活動“へと徐々に発展していく。2004年、国内のNGOが協力し、雲南省の怒江(サルウィン川上流。03年に世界遺産)のダム建設計画に対し反対運動を展開、世界ダム大会で国際世論を味方につけ、温家宝首相(当時)は工事の棚上げを発表した。強力なサポーターも後押しした。改革・開放を牽引してきた経済、建設部門と違い、社会のコストを扱う環境保護総局(現生体環境省)は、“ゴム印(法的な権限のみで実権なし)”と軽視されていた。地元の政治経済を環境部門でさえ優先する地方政府との軋轢もあった。NGOを環境同盟軍として「環保暴風(環境保護ストーム)」を吹き荒らし、30の国家プロジェクトの停止・見直しを要求した。
2005年、公式には中国初となる「円明園ビニールシート工事」公聴会が開催された。「人民日報」「新華通信社」がネットで生中継し、主要メディアも大々的に報道した。清代に造営された離宮の遺構にある湖に観光船を走らせるため、湖底にビールシートを敷く工事がほぼ完了という頃、偶然観光に来ていた造園学の専門家が憂慮し、メディアにリークしたのがきっかけだった。01年の「対話会」では、政府側が「専門家が科学的プロセスを用いて論証した。一般大衆はよく理解するように」を強調するのみだったという。しかし、05年の「公聴会」では、出席者は専門家、企業、市民にかかわらず、参加し自らの態度を発表することが求められた。生態系への影響だけでなく施行に至るプロセスは合法か?起業者や施工者の関係は?予算は適切か?市民の意識も向上していた。環境保護総局は工事の全面見直しを要求する一方、市民参加の意義について見解を表明し、翌06年「環境影響評価公衆参加暫定規則」が制定された。
2015年、25年ぶりに改訂された「環境保護法」は、情報公開と公衆参加を明記し、また「環境公益訴訟」の原告適格に“条件を満たす環境NGO”を含めた。日本では未導入の環境公益訴訟は、環境利益が侵害された場合、社会の共同利益を守るために法律で適格とされた機関・団体が訴訟を起こすことができる制度である。
社会主義体制下での市民と国家の関係に懐疑的な見方もあるだろう。徐々に築かれてきたしくみやチャネルの存在を知らない市民も依然として多いだろう。起業者に長期的な理がある場合もあるだろう。しかし、接点をさぐり、溝を埋めるチャネルをつかむことは当たり前ではなかった。しくみや制度の結実は「無」から創りだすことの重みでもある。
土木と市民をつなぐ上で、日本では“当たり前”すぎて、いつのまにか儀礼や休眠状態にさせてしまっていることはないだろうか。令和の時代に再考してはどうか。
【災害、危機管理等の最新記事】