2020年03月01日

第2回 花畑運河は荒川放水路の土木遺産

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シビルNPO連携プラットフォーム 理事
(日本河川協会 理事)三井 元子


はじめに
花畑川は、東京足立区の北東部にある中川と綾瀬川をつなぐ運河である。荒川放水路が開通すると舟運の渋滞が起こる事が予想されたため、昭和6年に開削された。開削当時の景観を残しているこの運河が、今、壊わされようとしている。花畑川を荒川放水路の土木遺産として推薦したい。

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1.なぜ運河開削が決まったか?
明治43年に東京・埼玉大水害があり、荒川の破堤箇所数十か所、死者369名、被災者150万人、流失・全壊家屋1679戸、浸水家屋27万戸、被害総額は国民総所得の約4.2%であった。そこで政府は、荒川放水路開削を決意。明治44年から19年の歳月をかけ、昭和5年に幅500mの荒川放水路が完成する。
ところが東京都心部への貨物の重要な舟運路であった中川は、放水路と並行して、大きく迂回して、木下川水門または小名木川水門を通過しなければならなくなり、閘門(ロックゲイト)で船が渋滞することが懸念された。そこで、大正10年に花畑運河開削が決定される。中川と綾瀬川をつなぐ運河を開削すれば、綾瀬川からは、放水路を横切って墨田川水門に入れることから、「約4里(16km)の短縮になるばかりか、屈曲が少ないので、時間と労力が省ける。船だけのためではなく、市場における物資供給の円滑化となり、地方への輸出入の運輸が敏活になると共に、陸上物資の停滞を緩和する他、経済上に及ぼす利益は少なくないと認め」花畑運河開削を計画した。

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そして、昭和6年、幅33.6m延長1,485mの運河が完成した。葛西用水は伏越で運河を横断させ、中川口には逆流を防ぐため水門をもうける形にした。工費は、36万7650円。(現在の約3億5千万円).東京府の大正10年の調査によると、東京市における貨物の集散量全体の3割は水運により集積され、市内河川・運河で取り扱われたものは年1,800万tに達していたという。
中川舟運は、ほとんどすべてが東京への輸出入で、花畑川では、1年間に下り貨物42,000t、米穀、醤油、粗砕、縄莚類。上り貨物 8,000t、雑貨、木材、石炭、豆粕、他に人糞尿40万荷。これを運搬する船は日に212艘もあった。

<参考文献>
(※「日本土木史 大正元年〜昭和」:日本土木学会)
(※「荒川下流史」:(財)リバーフロント整備センター)
(※「新修足立区史」下巻:足立区)
(※「東京府史 行政編」 第4巻:東京都)
(※『都史資料集成」第7巻◎震災復興期の東京A』)

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2.国の「都市計画法」制定後、関東で初めて完成した開削運河
日本土木史に拠れば 「大正8年(1919)の都市計画法制定後、全国的にも都市計画事業として新たに開削された運河は少なく、大阪の城北運河、名古屋の中川運河、富山の富岩運河など、きわめて少ない例であるといえる。」とある。

令和1年になって足立区は、川幅を半分の17mにして、両岸に8mの河津桜並木を作る計画を進めようとしている。
戦後、陸運が活発になり、たい肥も化学肥料の台頭によって使われなくなり、舟運は昭和31年頃に姿を消した。が、現代は、水面の価値に対する理解が深まり、かつて蓋掛けした川を開いたり、観光のための舟運を見直したりしている時代である。

今も開削当初の運河の景観が残っている花畑川は、歴史的にも経済史的にも、極めて貴重な河川である。時代に逆行する改修はやめるべきだ。水質が良くなり、魚影もみえるようになった花畑川を一度、ぜひ散策してみてほしい。

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