2020年04月01日

第3回幻の広浜鉄道

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シビルNPO連携プラットフォーム 理事         
NPO法人州都広島を実現する会 事務局長  野村 吉春


■ はじめに 「土木マニア」とか「鉄道ファン」が多数いらっしゃる。私的には、「こんな建造物が、この場所に、何故に造られたのか?」という、そんな不思議な光景に胸がときめく。 私は広島市安佐南区に住んでいるが、この度は「身近な土木遺産」ということで、自宅から駅まで10分の「JR可部線」の歴史にも関係のある、「身近な話題」を紹介します。

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■ 広浜鉄道とは  広浜鉄道とは、広島市と島根県の浜田市とを結ぶ総延長130qに及ぶ、「未完の陰陽連絡鉄道」の路線名である。(右図を参照)

広島県側は、明治39年に民間会社で横川〜可部間Ⓐが着工。国鉄に引き継がれ、戦争を挟んで昭和44年に三段峡Ⓑまで開通。
平成15年に可部〜三段峡間Ⓑが廃止。何と、平成29年に可部〜安芸亀山間1.6kmが電化により復活した。(Ⓐが現在の「可部線」の供用区間、右上の写真参照)

Ⓑ区間には、膨大な鉄道遺跡が存在するが、わずか十数年前の廃線を「土木遺産」と呼ぶのは、いささか興を削ぐので、この45kmに及ぶ廃線遺跡は今回は触れない。

今回のメインステージは島根県側の話題に着目したい。昭和8年に山陰本線の下府(しもこう)から着工され〜旭町までの「今福旧線」(青色のⒹ)を完成し、昭和15年に戦争で中断。昭和44年に浜田から「今福新線」(赤色のⒹ)として着手、昭和55年に工事中止となる。

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■ 新幹線規格?  私は、今福地内の説明版に驚いた!
「幻の広浜鉄道」と題して、新線は「広島〜浜田間を55分で結ぶ『新幹線』として、昭和49年にⒹの区間を完成した」と書かれているではないか!(右下の写真参照)
そこで県境をまたぐⒸの区間について調べると、何と延長10kmの長大トンネル含む複数本、掘削工事に着手。工事の痕跡や縦抗などを現地で確認した。

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以下の3点に照らして、余りにも大胆な計画に「自称;土木マニア」の胸がときめく。
■ @ 驚くべき土木構造物の展示場?  先行的に完成した、旧今福線(青色のⒹ)だが、地形が険しいため、トンネルと橋梁群で占められ、技術的難易度は土木の専門家でなくても誰でも解る。

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■ A新線建設への挑戦?  次に不思議なのは、半端ない努力の傑作である、旧線を捨てて、何故に更に新線を建設したのか? 明解な説明文が見当たらないため、「土木マニア」としてとんでもない妄想を感じる次第である。
地政学的な観点から捉えて、陰陽を最短ルートで結ぶ「広島と浜田間」には西中国山地が立ち塞ぐため、当時はバスによる所要時間は3〜4時間を要した。特に冬季は1m以上の積雪があり、困難を極めた。今では中国横断道(広島浜田線)の高速バスで最速100分で結ばれる。しかし、現在の半分の55分という高速鉄道計画は、容易に信じがたい。

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■ B標高1000mの山岳部を突破?  西中国山地を貫くⒸの区間には、延長10km、や8kmの長大トンネルに複数着手していた。現在ではリニア新幹線が、3000m級のアルプスをトンネルで抜く工事に挑戦しているが、昭和40年代の計画としては、信じがたいほどに大胆である。その痕跡は、今現在も中国山地の奥深くにひっそりと佇んでいるだけに不気味ですらある。(写真参照)

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■ 何故にという疑問  さて、通常なら「土木遺産の紹介」なので、ここで終わりたいところだが、「読者を煽りまくっておいて、何だ!」というお叱りを受けそうである。 よって「何故にという疑問〜未来への考察」を含めて、あくまで「土木マニア」として5つの私見を並べました。
私は、土木屋ですが鉄道分野は専門ではなく素人です。おそらく読者には、鉄道界の有識者も多数いらっしゃるので、忌憚のないアドバイスなどを頂けると幸甚です。


@地政学的な観点  私は、「この国のかたち」「地域のかたち」という表現を好んで使いますが、「土木」のストラテジーの観点から、「広浜鉄道」に光を当ててみては如何でしょう。(右図参照)
A起終点特性  交通軸には「何処往きの列車」とか、「何処と何処とを結ぶ」という起終点が重要。つまり、「広島と浜田」とを最短ルートで結ぶことに特段の意味があったと思われる。
B広島とは  現在の広島は平和都市のイメージが定着していますが、明治から戦前(日清・日露戦争)は我国の軍事拠点として、大本営が設置され、広島は東名阪に並ぶ大都市であった。

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C浜田とは  読者のみなさんは浜田市をご存知でしょうか? 奈良時代には下府駅の近くに石見の国府がおかれ、戦国時代以降は城下町、北前船の寄港地、明治初期に浜田県の県庁が置かれるなど、山陰の拠点都市として発展。朝鮮へは下関と並ぶ直近距離、第一級の水産都市でもあります。
しかし、近年は山陰地域全体が衰退し、山陰新幹線はおろか、高速道路(山陰道)も部分開通で、お隣の江津市は「本州で一番遠い都市」としての汚名を頂いているような状況です。
D 未来に向けて 広浜鉄道が幻で終わったのは大変に残念ですが、東京一極集中の弊害とリスクは、今回の「新型コロナ災害」、近い将来の「首都直下型震災」の重大リスクを回避する必要があります。そのため、私のNPOでは、「札・仙・広・福」を軸とする、「多極型の国づくり」を目指すべく、広島を軸に陰陽連絡新幹線の機運を高め、芸備線等の高規格化を推進したい考えています。

■ 広報活動の実態  この地域の衰退が進むにつれて、この「幻の広浜鉄道」に多くの方が感動され、近年は、その保存活動、案内板の整備、パンフレットの印刷、インタープリター(現地ガイド役)の養成講座など、多彩な取り組みをされ、研究会やシンポジウムも多数開催されています。
特に最近は、浜田市観光協会が「幻の広浜鉄道」や「今福線を巡る女子旅コース」などを企画し、広島の旅行会社では、ツアーバスを仕立てるなど、目を見張る活動ぶりです。

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■ 私の取組  最後に「私との関わり」だが、現役時代にこの地域の主要プロジェクトを多数手掛けてきた経緯があり、この地域への愛着が大きく、「NPO法人州都広島を実現する会」でも、会員の現地案内を実施してきた。
また、私のNPOでは、パネリストに「地元大学教授」「新聞社主」「広島電鉄社長」+「浜田市長」をお呼びして、広島と浜田の交流など、地域づくりのシンポジウムを開催した。
ご希望があれば、何時でも現地をご案内します。

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第23 回(最終回) 翻訳された方丈記の「土木」

国語辞典には「しゅん-こう【竣工・竣功】」と併記されることが多い。
白川静『字通』(1996年、平凡社)に「竣」は字形が「立は一定の位置に人の立つ形で、儀礼を行うところをいう。その設営の成ることを竣といい、竣功という。」とあり、訓義は「おわる、できあがる。」である。
江戸時代の「できあがる」は「禁裏御造営出来」「小御所御庭出来」「御普請出来」「天守台御普請相済」「市谷御門出来御引渡」「石垣樋桝御修復出来」など「出来」を用いるものが多い。「竣工」は深川永寿山海福寺の天和三年(1683年)の鐘銘「重新造焉、及乎竣工、知事來乞銘」、「竣功」は市谷覺雲山浄榮寺の文化五年(1808年)の鐘銘「重建鐘樓、越三年、土木竣功」(鐘楼再建の三年にわたる工事ができあがり)にあるものの、それぞれ現存する用例は少ない。

明治二年刊行『布令必用新撰字引』(1869年、松田成己)に「竣功 シュンコウ テガラガデキアガル」とある。国立公文書館を検索すると「大日本史刑法志竣功」(明治四年)、「東京横浜間ノ鉄道竣功開業」(明治五年)、「新紙幣製造竣功(明治八年)」があり、「竣功」は書物、鉄道、紙幣など「事業」のできあがりを示していた。功を奏す「奏功」、功を成す「成功」と同様のことばである。その後、「新道竣工(明治十五年)」、「軌鐡敷設竣工(明治十五年)」と「竣工」が混在して使われるようになった。ここで「工事竣功」が6,691件に対して「工事竣工」は263件。「竣工」は「工事」の意味を含む「できあがる」である。
(土木学会土木広報センター次長 小松 淳)
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2020年03月01日

第2回 花畑運河は荒川放水路の土木遺産

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シビルNPO連携プラットフォーム 理事
(日本河川協会 理事)三井 元子


はじめに
花畑川は、東京足立区の北東部にある中川と綾瀬川をつなぐ運河である。荒川放水路が開通すると舟運の渋滞が起こる事が予想されたため、昭和6年に開削された。開削当時の景観を残しているこの運河が、今、壊わされようとしている。花畑川を荒川放水路の土木遺産として推薦したい。

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1.なぜ運河開削が決まったか?
明治43年に東京・埼玉大水害があり、荒川の破堤箇所数十か所、死者369名、被災者150万人、流失・全壊家屋1679戸、浸水家屋27万戸、被害総額は国民総所得の約4.2%であった。そこで政府は、荒川放水路開削を決意。明治44年から19年の歳月をかけ、昭和5年に幅500mの荒川放水路が完成する。
ところが東京都心部への貨物の重要な舟運路であった中川は、放水路と並行して、大きく迂回して、木下川水門または小名木川水門を通過しなければならなくなり、閘門(ロックゲイト)で船が渋滞することが懸念された。そこで、大正10年に花畑運河開削が決定される。中川と綾瀬川をつなぐ運河を開削すれば、綾瀬川からは、放水路を横切って墨田川水門に入れることから、「約4里(16km)の短縮になるばかりか、屈曲が少ないので、時間と労力が省ける。船だけのためではなく、市場における物資供給の円滑化となり、地方への輸出入の運輸が敏活になると共に、陸上物資の停滞を緩和する他、経済上に及ぼす利益は少なくないと認め」花畑運河開削を計画した。

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そして、昭和6年、幅33.6m延長1,485mの運河が完成した。葛西用水は伏越で運河を横断させ、中川口には逆流を防ぐため水門をもうける形にした。工費は、36万7650円。(現在の約3億5千万円).東京府の大正10年の調査によると、東京市における貨物の集散量全体の3割は水運により集積され、市内河川・運河で取り扱われたものは年1,800万tに達していたという。
中川舟運は、ほとんどすべてが東京への輸出入で、花畑川では、1年間に下り貨物42,000t、米穀、醤油、粗砕、縄莚類。上り貨物 8,000t、雑貨、木材、石炭、豆粕、他に人糞尿40万荷。これを運搬する船は日に212艘もあった。

<参考文献>
(※「日本土木史 大正元年〜昭和」:日本土木学会)
(※「荒川下流史」:(財)リバーフロント整備センター)
(※「新修足立区史」下巻:足立区)
(※「東京府史 行政編」 第4巻:東京都)
(※『都史資料集成」第7巻◎震災復興期の東京A』)

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2.国の「都市計画法」制定後、関東で初めて完成した開削運河
日本土木史に拠れば 「大正8年(1919)の都市計画法制定後、全国的にも都市計画事業として新たに開削された運河は少なく、大阪の城北運河、名古屋の中川運河、富山の富岩運河など、きわめて少ない例であるといえる。」とある。

令和1年になって足立区は、川幅を半分の17mにして、両岸に8mの河津桜並木を作る計画を進めようとしている。
戦後、陸運が活発になり、たい肥も化学肥料の台頭によって使われなくなり、舟運は昭和31年頃に姿を消した。が、現代は、水面の価値に対する理解が深まり、かつて蓋掛けした川を開いたり、観光のための舟運を見直したりしている時代である。

今も開削当初の運河の景観が残っている花畑川は、歴史的にも経済史的にも、極めて貴重な河川である。時代に逆行する改修はやめるべきだ。水質が良くなり、魚影もみえるようになった花畑川を一度、ぜひ散策してみてほしい。

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