2020年09月01日

第8回 赤褐色の球形モニュメント -土地と産業の記憶装置-

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葛飾区産業観光部観光課主査 学芸員 
谷口 榮


JR常磐線の金町駅の北側に、東京理科大学葛飾キャンパスが平成25年(2013)4月に開校した。開放された空間に現代的な意匠を配した校舎がそびえ、若者が行き交う姿は、今までの葛飾区内には見られなかった、新しいまち景観である。
キャンパスの周囲には、「葛飾にいじゅくみらい公園」(葛飾区新宿6−3)が整備されている。この公園は、計画段階から区民参加と協働によって整備されたもので、面積が約7・1ヘクタールと区立公園としては最大の広さを誇っている。環境とユニバーサルデザインにも配慮し、多目的広場や大規模な災害時には避難拠点として機能するよう防災設備も整えられており、平成25年度第29回都市公園コンクールで国土交通省都市局長賞を受賞している。
この現代的に空間演出された大学と公園の風景の中にひときわ異彩を放つ赤褐色の大きな球形のモニュメントがある。この鉄の球体は、通称「地球釜」と呼ばれ、かつてこの地に在った三菱製紙株式会社中川工場(以下、「三菱製紙中川工場」と略す。)で損紙(そんし)を蒸して再生するための蒸釜である(図1)。

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三菱製紙中川工場は、本区における近代工業の先駆的な工場として、この新宿の地に築かれた。その経緯を簡単に記すと、合資会社三菱製紙所は、日露戦争後に国内の紙の需要が増加したことで、紙の大消費地である首都東京が紙の供給先として今後重要な位置を占めるものと注目し、本所方面への連絡が容易で、鉄道もあり、横浜方面と直接船で航行できる適地に工場の建設を計画する。
東京市部に近く、本所と同じ東部に位置し、の常磐線が通り、中川と江戸川に挟まれた葛飾区新宿付近が工場の建設地と選定され、工場名を「三菱製紙所中川工場」と決めて、大正4年から工事に着手して大正6年から操業を開始した(図2)。
創業当初に製造された製品には、煙草口紙用紙をはじめ、教科書用紙、模造紙などがあり、その後、大蔵省印刷局から受注した葉書用紙も重要な製品となった。

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第2次世界大戦の戦時中には、写真印画紙原紙(バライタ紙)の製造をはじめ、軍関係の地図用紙等の抄紙や、新紙幣の抄造と旧紙幣の処理なども行っている。
戦後、中川工場は、昭和21年(1946)4月に大蔵省から紙幣用紙抄造管理工場に指定され、戦争で被災した大蔵省印刷局大路工場が復興する昭和24年まで紙幣用紙の抄造を行った。
損紙等をパルプにする作業に使われたのが、昭和20年(1940)から昭和21年にかけて設置された球形の蒸釜「地球釜」である。この蒸釜は、厚さ16mmの鉄板32枚を鋲で球形に仕上げたもので、大きさは最大内径4.27m。釜の中に損紙等(5t)と水(9,000ℓ)を入れて、毎分1回転の速度で回転させながら蒸気を注入し、紙の繊維を解きほぐして再生原料として使用した。
まさにこの「地球釜」は戦中から戦後復興という戦争から平和への過渡期を経験しているのである。「地球釜」は、球形というフォルムだけでなく、操業時の回転する様子から呼び方が生じたものであるが、私には世界を巻き込んだ大戦と、大戦の反省から国際平和と安全の維持、経済・社会・文化面の国際協力の達成などを目的する国際連合が誕生した地球の姿にも見える。
実は、三菱製紙中川工場は、この地域の災害の歴史を記憶する「場」でもあった。最近まで残っていた2棟の煉瓦倉庫の壁面には、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災によって生じたクラックが残っていた(図3・4)。関東大震災による都心部での被害状況は知られているが、郊外での被害状況を知ることのできる資料として貴重だった。
その後、昭和17年(1942)4月18日の東京にはじめてアメリカ軍機による空襲が行われた際に、工場は爆撃による被害はなかったが、この時の惨事を目の当たりにする。葛飾区上空に飛来したB25は、軍事施設と見誤ったのか水元国民学校に機銃掃射を加え、当時14歳の石出巳之介君が被弾してしまう。急ぎ三菱製紙中川工場の医務室に運び込まれ、処置が施されたが助命することはできなかった。今年は、戦後75年という節目になるが、平和へ願いを込めこの地が東京初空襲で犠牲となった石出君の絶命した場所であることをこの小文にも記しておきたい。
終戦間もない昭和22年(1947)9月19日未明、カスリーン台風によって葛飾区水元の桜堤が決壊、工場は水浸しになり、甚大な被害を受けた。戦後の深刻な石炭不足や資材統制もあって、災禍後の本格的な復旧は昭和25年(1950)まで掛った。その後、設備補強を遂げ、バライタ紙やアート紙を量産し、新たにOA関連の感熱紙インクジェット紙などの製造も手掛けるなどして操業を続けた。

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しかし、社会情勢の変化などもあって工場の移転が決まり、平成15年(2003)3月に三菱製紙中川工場は86年余りの歴史に幕を下ろした。その後、UR都市機構が土地を取得し、隣接する三菱ガス化学株式会社の工場も含めた土地区画整理事業や道路等のインフラストラクチャーの整備に着手。まちの骨格を整え、葛飾区、民間事業者とともに新しいまちづくりが進められ、「葛飾にいじゅくみらい公園」が誕生した。
かつて中川沿いには、三菱製紙中川工場をはじめとしていくつかの製紙工場が操業していた。現在、それらの製紙産業は姿を消してしまったが、葛飾区の近代産業の幕開けの地であることと、かつての製紙産業を後世に伝える記憶装置としても「地球釜」は存在している。
本来なら葛飾区近代工業の発祥の地を記憶顕彰する土木遺産として、「地球釜」とともに煉瓦倉庫などの構造物を保存活用すべきだったのではないかと私は思っている。特に、工場建物の部材として用いられた煉瓦は、地元の金町製瓦会社で焼かれたものであり、葛飾の窯業との関わりを物語る貴重な土木遺産であった。
今後、煉瓦倉庫の壁面の一部はモニュメントとして公園内に設置されると聞いているが、かつての土地の記憶が消え失せぬように(図5)、この土地の有する土木遺産的価値を活かした再整備を期待している。きっと区民にとって過去・現在・未来に思いを馳せられる魅力ある「場」となろう。

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2020年06月01日

第5回宮崎県延岡市の「五ヶ瀬川の畳堤(たたみてい)」

五ヶ瀬川の畳堤を守る会 会長
木原 万里子
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宮崎県延岡市は宮崎県の北部に位置し、西に高千穂渓谷、東に日向灘に囲まれ、旭化成を中心に発展した人口12万人の地方都市です。
水郷延岡と称されるように、市内には五ヶ瀬川、大瀬川、祝子川、北川と大きな川が4つあり、そのうち畳堤のある五ヶ瀬川の源流は宮崎県と熊本県の県境にそびえる向坂山です。この川は延岡市内に入ると分流して五ヶ瀬川と大瀬川となり、市街地を貫流した後、河口近くで再び合流します。
この2つの川に挟まれた中州のほぼ中央、小高い山に最初の城主「高橋元種」が城を築き、政治、経済、文化が発達してきました。延岡の町は川によって造られた、といわれる所以です。
しかし、ひとたび豪雨が降ると、4つの川の水が一気に河口に流れ込みます。河口が小さいため、流水が膨れ上がり、水位が増し市街地は幾度も浸水被害を受けてきました。
五ヶ瀬川の「畳堤」は浸水被害から市街地を守るために造られた施設です。高さ60cmの橋の高欄に似たコンクリート製の枠が堤防上に連なり、上から見ると幅7cmの隙間が空けてあります。この隙間に畳がすっぽりと入ります。台風などで川の水が堤防を越える前に、畳を立てて洪水を防ぐ目的で造られました。ただし、戦災により街は焦土化し資料が残っておりません。
現在「畳堤」は、五ヶ瀬川沿いに、延べ980mが残っています。

昔は大瀬川沿いにも設置されており、総延長は2000mで、畳をはめ込むと約1000枚の畳が必要だったと言われています。

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全国的には、岐阜県岐阜市の長良川と兵庫県たつの市の揖保川にも畳堤があります。
長良川が昭和11年、揖保川が昭和25年に施工されました。五ヶ瀬川の畳堤は大正末期から昭和初期に造られたことが分かっており、日本最初に建造された畳堤と推定されています。

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当時の一般家庭では江戸間(長さ176cm幅88cm)の畳が使用されており、川岸の住民が自分の家の畳を持ち出し畳堤に畳を差し込み越水を防いだと伝えられています。畳は一度水を含むと乾いても使用できなくなってしまいます。川岸の住民が自分を犠牲にして街の人々を守ろうとした地域愛や皆で助け合う心が伝わってきます。これこそが防災の心です。
私たちは「畳堤」を地域防災のシンボルとして守り、保存し、洪水の被害から街を守ろうとした昔の人々の知恵や工夫を見直し、畳堤に込められた「自助・共助」の精神を広く伝えたいと平成13年に市民グループ「五ヶ瀬川の畳堤を守る会」を設立しました。依来、様々な活動を行っていますが、その内容の一部をご紹介いたします。
畳堤の自助・共助の精神を未来につなぎ、地域防災のシンボルとして守り、保存する活動として、毎年市主催の「防災フェスタ」に参加し子どもたちに紙芝居やぬり絵等で先人の思いを伝えています。
定期的に畳堤の清掃活動を行い、日常的に見学、触れられる環境づくりを行っています。
また先年、国交省の事業で畳堤のある堤防が補強拡幅され、非常時には防災道路、普段は畳堤散策路として利用できるようになりました。そこで今回、初の「水辺の青空美術館」を開催することができました。

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さらに、100年先の後世に「畳堤」の教えを伝えるために、等身大の石像を作って設置しました。

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様々な活動に対し下記のとおり表彰を受けております。
〇平成22年河川功労者表彰。
〇平成26年水防功労者国土交通大臣賞
〇平成27年土木学会選奨土木遺産認定

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水辺の青空美術館は、今年も11月1日〜12月20日50日間、実施する予定です。
ご覧いただければ幸いです。
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コロナと共に〜駆け足でやってきた未来とまちづくり〜

シビルNPO連携プラットフォーム 理事
茨城の暮らしと景観を考える会 代表理事
三上 靖彦
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ニューノーマル。今の状態を拒み、戦う姿勢を維持するのではなく、また、台風が過ぎるのをじっと待つのでもなく、今の状態を受け入れ、それを新しい生活様式として定着させることが大切になる。しかもそれは、起こる予定だった社会的・経済的変化が、コロナによって結果を早く求めるようになり、早いペースでの変化を余儀なくされただけだ。
「withコロナ」、コロナと共に。時代が大きく動き始めた。その変化はとても速く、私たちは試行錯誤しながら、新しい暮らし方、新しい働き方を始めなければならない。まちづくりの分野でも、暮らし方、働き方の変化がもたらすソフト・ハード両面での変化は大きい。

(1)今、何が起こっているのか
<オンライン化> そのうちそうなるかも知れない、と思ってはいたが、宅配や働く現場でも子供たちの教育の面でも、劇的なオンライン化へ。その結果、私たちは、私たち自身の「暮らし」を中心に物事を考え始めることになる。住む場所を選ぶにしても、学校や勤め先が近いから、といった理由ではなく、いかに暮らし易いか。それは「ワーク・ライフ・バランス」ではなく、「ワーク・ライフ・ミックス」の社会だ。
<ソーシャル・ディスタンス> 利便性を優先すれば仕方がない、と思っていた高層高密な社会から、ソーシャル・ディスタンスや外気を意識した環境整備へ。その観点で人々が暮らす地元を再整備する必要がる。車道を減らし、社会的距離の確保のために歩道と自転車道を広くとる。現在国や地方自治体で進められているコンパクトシティの政策を進めつつ、一極集中型の高層高密から多極分散型の低層低密社会へ。
<地産地消> 原材料と人件費の安いところで製造し、それを安く輸入するのが当たり前だったが、安全性を含め、大切なものは多少割高でも地産地消へ。グローバル経済から、地域が自立して連帯する地産地消中心型へ。国内で流通消費できる体制を整え、自給自足と供給網の国内回帰が激しく進む。

(2)「まちなか」はどうなるか
物販の小売店でも、他から仕入れて、その上に手間賃を乗せているだけのお店は、ネット通販には敵わない。簡単だし、安いし、配達もしてくれる。徹底的にネットで済むことはネットで、の社会が到来。飲食店は、テイクアウト型に大きくシフト。そもそもテイクアウトの仕組みが作れないお店はその時点で続かない。テイクアウトを始めても、実は客は、続いて欲しいお店を選んで応援する。時間を掛けて、わざわざ行くだけの価値のあるお店、手づくり感・手触り感のあるお店のみが生き残る。

(3)バックキャスティングでまちづくりを
地方分散型・低層低密のネットワーク型社会で、日常の殆どをオンラインで済ませ、人々の移動は、特別の時、特別の場所に限られる社会。優先順位の一番は「暮らし」。抜本的に世の中が変わると覚悟して現状維持とか原状回復とかは考えずに、今までの当り前から切り離して未来を描き、バックキャスティング方式で「特別な選ばれる場所」づくりを目指したい。

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