私は日本有数の急流河川・黒部川沿いの山村、富山県旧宇奈月町で生を受けた。宇奈月は100年ほど前から黒部川の水力発電開発の拠点となった所で、最上流部には黒部川第四発電所(1963年完成/通称:クロヨン/殉職者数171名)がある。“クロヨン”が完成した時は小学5年生、小学校にあった村唯一のテレビで、クロヨン完成の様子をみんなで観たが、この工事で同級生の父親が命を落としたことも知った。当時、作文に「大きくなったら安全にダムをつくる土木技術者になりたい」と綴った。そして、1968年に公開され、観客動員733万人の空前の大ヒットとなった映画「黒部の太陽」(主演:石原裕次郎、三船敏郎)を観て感動し、土木を立志、裕次郎が演じた建設会社に入った。土木であれば“裏日本”“山村”の出身者でも都会人には負けないだろうとの漠然とした思いもあった。

入社後は、ブレーキもバックギアも持たない“暴走族”(当時は企業戦士ともいった)と化した。この45年間、故郷を振り返ることは一切なかったが、昨年の7月から生活の拠点を東京から宇奈月に変えた。生まれ故郷への移住である。“田舎を捨てた”不届きものであるにも関わらず、何事も無かったかのように集落民は私を温かく迎え入れてくれた。家の周りの草を刈ったり、倒木を片付けたり、村の行事に参加するなどの日々を送っている。



これまでの人生をボッーと振り返る中で、小さい頃のことがつい最近の事のように蘇ってくる。家の敷地内に流れている農業用水の水門を開閉させて遊んでいた時のこと。祖父からこっぴどく叱られ納屋に閉じ込められた。この集落は水が豊富な黒部川との比高差は100mほどの隆起性旧扇状地(台地)であり、米作に必要な十分な水が得られず養蚕や煙草葉・果樹栽培で何とか生き抜いてきた。90年前に土木技術の発達、水力発電事業との連携強化などから、黒部川からの引水により米作が可能となった。しかし、水を巡る争い(我田引水)が絶えなったので、選ばれた数人の大人が掟に基づいて公平な水門操作を行っていたのだ。

“円筒分水槽”をご存知だろうか。 “1”箇所の取水坑に湧き出る水が“3”箇所の用水路に作付面積に応じて公平に分配される仕掛けである。これによって3地区共同で取水口を集中化・大型化することで安定的な取水が可能となっただけでなく、身勝手な水の奪い合いが無くなった。
水が豊富な時の恩恵は、3地区が公平にウインウインとなる。最大の妙は水が少ない時には、これまた3地区が公平にガマンガマン、つまり共生(ともいき)である。

60年前に“過疎”、40年前には“中山間地”、そして20年前には“限界集落”と云う警鐘語が生まれた。高度経済成長の副作用として東京などへの一極集中が過度に進行し、この数年、地方創生が叫ばれているが、一筋縄では行かないようである。
また、成熟社会は一見、多様化を実現しつつあるようにみえる。しかしそれが目先の経済的な損得に重きをおいた無味乾燥な「個人化」の進展であれば、幸せとはほど遠い社会が到来する。多様な価値観とは何でもありではない。それぞれの判断で人生を設計し、それぞれの責任で歩まなければならない。それは決して容易なことではない。これまで先人たちが力を合わせて築き上げてきた智慧から学ぶことの大切さを思い起こしつつ、共生(ともいき)の約束事(利他心/道義心)を土台とし、その上で個々人の価値観を際立たせることができる社会を目指すべきではないだろうか。
国家や地域、人は本質的には多様である。経済効率や経済成長を優先するあまりに、多様であるべき文化や価値観があくなき利潤を追求するグローバル市場になぎ倒され、様々な矛盾が顕在化してきているのではないか?地方創生や一億総活躍、女性活躍などの目的が経済再成長を促すためではなく、それぞれが、かけがえのない人生を送れる多様な価値観が尊重される国へと豊かさの質を転換するための方策であってもらいたいと思う。
まさに”共生(ともいき) “の回復が国難突破の鍵となるような気がする。期待感もこめて。
結びに、昨年、アフガニスタンに凶弾に倒れた中村哲医師のことば「現地の願いは三度のご飯と故郷での平和な暮らしだけ。今、100か所の診療所、100人の医師よりも一本の用水路が必要だ」改めて重く受け止めたい。
