2020年11月01日

分かり易い土木 第7 回 鉄道の話−ミニ新幹線−

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シビルNPO連携プラットフォーム 代表理事
山本 卓朗


前回、ゲージ(軌道間隔)の話をしましたがその続きです。
我が国のゲージは太宗を占める国鉄が「狭軌」となりましたが、「標準軌」など異なるゲージの鉄道も走っています。近年、利便性を高めるために、都心を貫通するスル―運転が実施されていますが、当然のことながら、同じゲージの路線同士で結ばれています。例えば、「狭軌」のJR中央・総武線と地下鉄東西線、「標準軌」同士の京浜急行電鉄から都営浅草線をへて京成電鉄などです。

さて、新幹線が登場して半世紀を過ぎましたが、全国にそのネットワークを整備したいという夢は、財源や採算性から簡単に実現出来るものではありません。そこで既存の新幹線と在来線をつないで、地方の中核都市へ新幹線の効果を及ぼそうという構想が東北新幹線と山形・秋田方面をつなぐ形で実現しました。新在直通運転といいますが、“ミニ新幹線”の呼称で親しまれています。

では「標準軌」と「狭軌」をどうやって繋ぐのでしょうか?
まず車両の車輪間隔を可変装置で変える方式があり、スペインその他で実際に使われています。我が国では新幹線用にフリーゲージトレインの名称で開発が進められていますが、未だ高速域での実用化のめどが立っていません。
山形・秋田のミニ新幹線構想では、在来区間のゲージを「標準軌」に広げる方式を取りました。しかしゲージを広げても在来線のトンネルなどの空間は小さいままなので、車両は小型の在来線用です。こうして実際の運転は、東京駅から新幹線車両と在来乗り入れ用車両を併結して出発し、福島駅と盛岡駅で切り離します。ゲージを広げる工事ですが、作業を効率的に行うために、レールや枕木交換から軌道整備まで一貫して行う「ビッグワンダー(写真)」と呼ばれる軌道更新機が開発され大活躍しました。
ミニ新幹線の最大の特徴は、乗り換えなしで新在が直通することにあり、その利便性が利用客に評価されて、競争関係にある航空利用が激減したことにもつながったと思われます。

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「学び」と野外活動

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シビルNPO連携プラットフォーム 常務理事/企画サービス部門長
社会基盤ライフサイクルマネジメント研究会 副理事長
横塚 雅実


リヒャルト・シルマンは1874年ドイツ、祖父・父ともに教師の家庭に生まれました。師範学校に在学中の17歳のとき、地理教師が進めた授業に触発され貴重な徒歩旅行を体験しました。彼は1895年、教会学校の教師に採用されると、児童と一緒に野外に出て、遊び歌をうたい、算数など教科の授業も行う「ワンデルンシューレ(移動教室)」を思いつきます。そして、これがのちにユースホステル運動の発想を生むことになります。
シルマンは教室で授業を受ける子どもたちに、元気がなく、病気がちであることを憂えていました。当時、急速な工業化に伴う大気汚染で肺病になったり、周囲の急速な生活環境の変化で精神的に落ち込むような子どもたちが多かったといいます。シルマンは町なかの教室から子どもたちを連れ出し、郊外の森の中で授業をおこなってみたところ、子どもたちに笑顔が戻り、元気になるという効果に気付いたようです。
1909年、彼はドルトムント近くのアルテナを始点としてライン川沿いにアーヘンの丘陵地帯を抜ける8泊の徒歩旅行を実施しました。徒歩旅行2日目に激しい風雨に見舞われたとき、農家に納屋の宿泊利用を依頼したが断られ、一行は村の学校で教員の妻の許可を得てやっと宿泊できました。「ドイツ国中の学校が、宿舎(ホステル)として提供されれば、子供たちのために、安全で簡素で格安なユースホステルを作れる」と発想し、これを契機にユースホステル運動が始まります。
その後、この運動はドイツ国内に拡大し、第2次世界大戦という不幸な出来事がありましたが、ヨーロッパ、アメリカへと広がりました。日本へは戦後、1951年にアメリカ経由でユースホステルが導入され、東京・日光・富士・伊豆等13ヶ所に設置されました。現在では世界で約80の国と地域に約4,000か所、日本国内には約220か所のユースホステルが設置されています。世界で年間宿泊者数は約3,700万人、ユースホステル会員数は380万人、世界最大の宿のネットワークです。
私も1972年、当時NHK総合テレビが放映した「太陽の丘」という、ユースホステルを舞台にしたテレビドラマに影響を受け会員に登録しました。このドラマは伊豆山中にあるユースホステルで、さまざまな問題を背負いここを訪れる若者たちと、ペアレント(管理人)一家との交流を描き、社会や家族を見つめたものでした。森繁久彌がこのペアレントを演じ、田辺靖雄、九重祐三子、岡崎友紀などが登場します。
私の場合は徳島県鳴門市のユースホステルの運営を支えるボランティア(ヘルパー)として学生時代の4年間を過ごし、そこを訪れる同世代の青少年(ホステラー)と交流する貴重な機会を得ることができました。夕食後、ホステラーは食堂に集まり、歌を歌い、ゲームを楽しみます。そして彼らは翌朝自ら部屋を清掃し、「行ってきまーす」と元気に次の目的地に旅立っていきました。ペアレントの青木夫妻(他界)は私にとって両親も同然で、鳴門は第2の故郷でした。また、全国各地から集まったヘルパーは今も「渦潮の会」という懇親の集まりを継続しています。
野外での非日常的な体験は、青少年に貴重な「学び」の機会を与えます。人はひとりでこの社会にいるのではなく、他者と繋がり結びながら、その関係の中に、自分を発見しようとするものであること。そしてその過程で、自らが新しい価値をつくりだし、それを人々の生活や社会に埋め込んで、新たな価値によって革新し続けるものであること。このような「学び」の実践が、旅をするという非日常的な体験で、青少年に育むことができるのです。シルマンの時代と背景は大きく異なりますが、青少年がこのような「学ぶ」機会を得ることを、我々はたゆまず努力して提供する責務を持っているように感じています。
そして、この「学ぶ」姿勢は世代を超えて、今の私たちにこそ、求められているものと思います。

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大阪万博のレガシー“太陽の塔”

 数年前、昭和世代には忘れられない“太陽の塔”に再会し、改めて紹介致します。   
 1970年(昭和45年)開催の大阪万博のシンボルとしてデザインされた高さ70mのSRC造(一部鉄骨造)の搭状施設ですが、多くのレガシーを築きました。
 3つの顔、黄金の顔/太陽の顔/黒い太陽が会場内を見つめ、海外の来訪者にも強烈なインパクトを与えました。高校生の私は、この顔に見守られながら、国内外のパビリオンを巡り歩いたのです。
 最近、耐震改修工事と内部再生事業が完了し、太陽の塔を有する万博記念公園の再出発に大きな期待が高まっています。
▼フレンズコーナーに続く。
(吉川 弘道)

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私が主宰する土木ウォッチングには、このような投稿記事を分類/公開しています(現時点にて1100件1800セッション)。
https://www.doboku-watching.com/
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