2020年04月01日

渓流釣りと川の在り方

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シビルNPO連携プラットフォームサポーター
出会いの島「豆島」プロジェクトチーム
事務局長 出本 眞次


渓流釣りを始めて、もう50年以上になる。僕の渓流釣りは、渓流釣りと言ってもそんなに山奥まで押し入って深山の奥の源流域まで行くような釣りではない。今はインターネットで詳しい地図が見られるようになり便利になったが、昔は1万分の1の地図などを購入して釣りの計画を立てていた。放流されている河川での釣行も釣りに行くこともあったが、もっぱら釣れるか釣れないか分からない川を、地図を頼りに釣行することを実施して、例えば地理を読み5本の川を試し釣りで順番に、下流から、上流へと釣り歩く。下流域はハヤの生息が多くて、中々、アマゴは釣れない。それでも昔は地元の人しか知らない小さな川でもアマゴが生息していた。それにあたると数は釣れなくてもうれしくて、自然の地形と川を推理しての釣行を続けた。
何年かすると、何本かの川を探り当て、1年に1度か数回順番に釣り歩き出来るだけ同じ川でも同じ場所は年に1度だけの釣行を試みることが出来るようになった。
今は尼崎市に住み、広島の実家に帰省した時に数年か10数年ぶりに当時釣れた川を見に行くと無残に3面張りのコンクリート造りの川に改修悪されて、いたるところ川の段差は、コンクリートの壁で遮断されている。昔は,川の流れが自然な落差で、下が淵になり大アマゴが潜んでいたその場所は無くなり堰の下は平面で水もほとんどない状況の場所になってしまっている。僕が釣行していた川の多くは大きな川でないので、なおさら単なる放水路になり、雨が降ればすべてのものは一気に流されて、魚類やカニ類も住めなくなっている。当然蛍や水生生物もほとんど住めなくなっている。
今は、関西に来て、パソコンで、地図を出してみて、やはり地形や、山を,川を分析して、釣行している。幸い数本の、岩魚と山女魚,アマゴが生息している川を見つけた。1本の川は年1度か2度までの釣行を心掛けている。川の釣は海と違って、自然のものは資源再生力が低いからである。
関西で開拓した川も3面張りの川もあるが、僕が釣行している川は、少しはましで、川底は自然のままで残されている、しかし次から次に土石流を防ぐためか、堰が造られている。其の為堰と、堰の間までが魚たちの交流水域で、一度堰を下ると二度と上流域には行けなくなる。堰の底部には少し小さい穴が設けられているものもあるが、多くは堰の上部まで土で埋まり単なる川の連続性を遮断する妨害物になっている。ただでさえ川の魚類は再生力が低いのだが、一本の川でもすごく多くの堰が造営されて魚たちの交流を妨げている。
近年、気候変動で、集中豪雨が多発している。防災上で、堰の建造は必要とは考えるが、多目的のダムでないダムや堰は、基本は穴あきダムや堰に変更して行き、魚道を確保して、日常には堰に水は貯めず大雨の時だけ土石流や大雨をやり過ごすように様にする。堰の穴は、その川の流量計算で大きさを決めて建造する。そうすれば多くの堰が、集中豪雨の時に役立ってくる。今のような堰では、何年か経つと土砂が堆積して貯水力はほぼ無くなり単なる川をせき止めて崖になってしまう。

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上記写真両側は、砂防提の上部に土砂が堆積して単なる崖になっている写真2枚
自然のままの流れ(真ん中写真)


これからは流水型のダムや堰に変更して通常時は川の流れは普通に流れて魚も自由に上流、下流と移動できる環境を造ることが必要と思われる。又、多目的ダムも大雨の時には今の利水優先の運営でなく、ダム管理責任者が、その時の天候状況を判断して、洪水を防ぐための事前放流を実施できるように権限を持たすような法改革も必要と思われる。今ではダム責任者は災害を少しでも減らそうとしても利水権で行動が縛られていて、ダムの責任者にはなりたくないと思う人が多々いるという。ダムの管理責任者も、船の船長と同等の権限と責任を持てるようにして、大海原での嵐に対する船長のようにダム責任者にも運営の裁量を最大限与えるべき時に来ていると思われる。
まだまだダムは、人の生活に一部役立っているがいままでのダムや堰は、自然界の魚や、水生生物の事を考えていない構造に多くはなっている。
だが少しずつ災害時の工事などで「美しい山河を守る災害復旧基本方針」等が制定されて、「災害復旧は多自然川づくりの考え方に基づく復旧とし、災害に対する備えだけでなく、従前から有している河川環境の保全を図る」と少しずつ改善は進んできていて、河川の改修は、片岸を出来るだけやり対岸は残すとか、河畔林や、山付き部や淵は出来るだけ残す等自然環境を配慮した工事が行われ出したことは1歩前進である。
土木の専門家のみなさん、魚や水生生物の身になって川を考えましょう。
僕たち釣り人もむちゃくちゃ釣るだけでなく、アマゴや岩魚が持続して生息できるように、考えて魚釣りをする。そして、今まで人が自然を破壊してきたものをまた元の自然環境にもどす努力が必要と思う。
追記
僕が活動している尼崎市でのウナギの生態の考察は、「SEFIのホームページの新着情報 一覧を見る 2017年11月25日原稿 「ウナギの生態環境と豆島」」で述べていますので、ぜひご覧ください。
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第3回幻の広浜鉄道

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シビルNPO連携プラットフォーム 理事         
NPO法人州都広島を実現する会 事務局長  野村 吉春


■ はじめに 「土木マニア」とか「鉄道ファン」が多数いらっしゃる。私的には、「こんな建造物が、この場所に、何故に造られたのか?」という、そんな不思議な光景に胸がときめく。 私は広島市安佐南区に住んでいるが、この度は「身近な土木遺産」ということで、自宅から駅まで10分の「JR可部線」の歴史にも関係のある、「身近な話題」を紹介します。

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■ 広浜鉄道とは  広浜鉄道とは、広島市と島根県の浜田市とを結ぶ総延長130qに及ぶ、「未完の陰陽連絡鉄道」の路線名である。(右図を参照)

広島県側は、明治39年に民間会社で横川〜可部間Ⓐが着工。国鉄に引き継がれ、戦争を挟んで昭和44年に三段峡Ⓑまで開通。
平成15年に可部〜三段峡間Ⓑが廃止。何と、平成29年に可部〜安芸亀山間1.6kmが電化により復活した。(Ⓐが現在の「可部線」の供用区間、右上の写真参照)

Ⓑ区間には、膨大な鉄道遺跡が存在するが、わずか十数年前の廃線を「土木遺産」と呼ぶのは、いささか興を削ぐので、この45kmに及ぶ廃線遺跡は今回は触れない。

今回のメインステージは島根県側の話題に着目したい。昭和8年に山陰本線の下府(しもこう)から着工され〜旭町までの「今福旧線」(青色のⒹ)を完成し、昭和15年に戦争で中断。昭和44年に浜田から「今福新線」(赤色のⒹ)として着手、昭和55年に工事中止となる。

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■ 新幹線規格?  私は、今福地内の説明版に驚いた!
「幻の広浜鉄道」と題して、新線は「広島〜浜田間を55分で結ぶ『新幹線』として、昭和49年にⒹの区間を完成した」と書かれているではないか!(右下の写真参照)
そこで県境をまたぐⒸの区間について調べると、何と延長10kmの長大トンネル含む複数本、掘削工事に着手。工事の痕跡や縦抗などを現地で確認した。

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以下の3点に照らして、余りにも大胆な計画に「自称;土木マニア」の胸がときめく。
■ @ 驚くべき土木構造物の展示場?  先行的に完成した、旧今福線(青色のⒹ)だが、地形が険しいため、トンネルと橋梁群で占められ、技術的難易度は土木の専門家でなくても誰でも解る。

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■ A新線建設への挑戦?  次に不思議なのは、半端ない努力の傑作である、旧線を捨てて、何故に更に新線を建設したのか? 明解な説明文が見当たらないため、「土木マニア」としてとんでもない妄想を感じる次第である。
地政学的な観点から捉えて、陰陽を最短ルートで結ぶ「広島と浜田間」には西中国山地が立ち塞ぐため、当時はバスによる所要時間は3〜4時間を要した。特に冬季は1m以上の積雪があり、困難を極めた。今では中国横断道(広島浜田線)の高速バスで最速100分で結ばれる。しかし、現在の半分の55分という高速鉄道計画は、容易に信じがたい。

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■ B標高1000mの山岳部を突破?  西中国山地を貫くⒸの区間には、延長10km、や8kmの長大トンネルに複数着手していた。現在ではリニア新幹線が、3000m級のアルプスをトンネルで抜く工事に挑戦しているが、昭和40年代の計画としては、信じがたいほどに大胆である。その痕跡は、今現在も中国山地の奥深くにひっそりと佇んでいるだけに不気味ですらある。(写真参照)

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■ 何故にという疑問  さて、通常なら「土木遺産の紹介」なので、ここで終わりたいところだが、「読者を煽りまくっておいて、何だ!」というお叱りを受けそうである。 よって「何故にという疑問〜未来への考察」を含めて、あくまで「土木マニア」として5つの私見を並べました。
私は、土木屋ですが鉄道分野は専門ではなく素人です。おそらく読者には、鉄道界の有識者も多数いらっしゃるので、忌憚のないアドバイスなどを頂けると幸甚です。


@地政学的な観点  私は、「この国のかたち」「地域のかたち」という表現を好んで使いますが、「土木」のストラテジーの観点から、「広浜鉄道」に光を当ててみては如何でしょう。(右図参照)
A起終点特性  交通軸には「何処往きの列車」とか、「何処と何処とを結ぶ」という起終点が重要。つまり、「広島と浜田」とを最短ルートで結ぶことに特段の意味があったと思われる。
B広島とは  現在の広島は平和都市のイメージが定着していますが、明治から戦前(日清・日露戦争)は我国の軍事拠点として、大本営が設置され、広島は東名阪に並ぶ大都市であった。

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C浜田とは  読者のみなさんは浜田市をご存知でしょうか? 奈良時代には下府駅の近くに石見の国府がおかれ、戦国時代以降は城下町、北前船の寄港地、明治初期に浜田県の県庁が置かれるなど、山陰の拠点都市として発展。朝鮮へは下関と並ぶ直近距離、第一級の水産都市でもあります。
しかし、近年は山陰地域全体が衰退し、山陰新幹線はおろか、高速道路(山陰道)も部分開通で、お隣の江津市は「本州で一番遠い都市」としての汚名を頂いているような状況です。
D 未来に向けて 広浜鉄道が幻で終わったのは大変に残念ですが、東京一極集中の弊害とリスクは、今回の「新型コロナ災害」、近い将来の「首都直下型震災」の重大リスクを回避する必要があります。そのため、私のNPOでは、「札・仙・広・福」を軸とする、「多極型の国づくり」を目指すべく、広島を軸に陰陽連絡新幹線の機運を高め、芸備線等の高規格化を推進したい考えています。

■ 広報活動の実態  この地域の衰退が進むにつれて、この「幻の広浜鉄道」に多くの方が感動され、近年は、その保存活動、案内板の整備、パンフレットの印刷、インタープリター(現地ガイド役)の養成講座など、多彩な取り組みをされ、研究会やシンポジウムも多数開催されています。
特に最近は、浜田市観光協会が「幻の広浜鉄道」や「今福線を巡る女子旅コース」などを企画し、広島の旅行会社では、ツアーバスを仕立てるなど、目を見張る活動ぶりです。

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■ 私の取組  最後に「私との関わり」だが、現役時代にこの地域の主要プロジェクトを多数手掛けてきた経緯があり、この地域への愛着が大きく、「NPO法人州都広島を実現する会」でも、会員の現地案内を実施してきた。
また、私のNPOでは、パネリストに「地元大学教授」「新聞社主」「広島電鉄社長」+「浜田市長」をお呼びして、広島と浜田の交流など、地域づくりのシンポジウムを開催した。
ご希望があれば、何時でも現地をご案内します。

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第23 回(最終回) 翻訳された方丈記の「土木」

国語辞典には「しゅん-こう【竣工・竣功】」と併記されることが多い。
白川静『字通』(1996年、平凡社)に「竣」は字形が「立は一定の位置に人の立つ形で、儀礼を行うところをいう。その設営の成ることを竣といい、竣功という。」とあり、訓義は「おわる、できあがる。」である。
江戸時代の「できあがる」は「禁裏御造営出来」「小御所御庭出来」「御普請出来」「天守台御普請相済」「市谷御門出来御引渡」「石垣樋桝御修復出来」など「出来」を用いるものが多い。「竣工」は深川永寿山海福寺の天和三年(1683年)の鐘銘「重新造焉、及乎竣工、知事來乞銘」、「竣功」は市谷覺雲山浄榮寺の文化五年(1808年)の鐘銘「重建鐘樓、越三年、土木竣功」(鐘楼再建の三年にわたる工事ができあがり)にあるものの、それぞれ現存する用例は少ない。

明治二年刊行『布令必用新撰字引』(1869年、松田成己)に「竣功 シュンコウ テガラガデキアガル」とある。国立公文書館を検索すると「大日本史刑法志竣功」(明治四年)、「東京横浜間ノ鉄道竣功開業」(明治五年)、「新紙幣製造竣功(明治八年)」があり、「竣功」は書物、鉄道、紙幣など「事業」のできあがりを示していた。功を奏す「奏功」、功を成す「成功」と同様のことばである。その後、「新道竣工(明治十五年)」、「軌鐡敷設竣工(明治十五年)」と「竣工」が混在して使われるようになった。ここで「工事竣功」が6,691件に対して「工事竣工」は263件。「竣工」は「工事」の意味を含む「できあがる」である。
(土木学会土木広報センター次長 小松 淳)
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